『何かあっても必ず生きて再会しよう』東日本大震災から14年 石巻市の語り部が伝えたいこと
宮崎市では3月8日、宮城県石巻市で被災した女性が宮崎市を訪れ、東日本大震災の経験を語りました。語り部となった女性が、いま伝えたいこととは…。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「雄勝町はここになります。私が生まれ育ったところはここです。海岸線がぐちゃぐちゃとしているリアス式海岸と呼ばれるところになります」
宮城県石巻市雄勝町出身の佐藤麻紀さん。
東日本大震災で被災した経験を教訓にしてもらおうと、語り部として全国各地に足を運んでいます。
3月8日はJICAデスク宮崎が企画した防災講座で、約50人を前に当時の様子を語りました。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「ものすごく揺れました。ガタガタガタガタって。大きい箱に小さな人形を入れてシェイクしたような体感でした」
スーパーで勤務中だった佐藤さんを襲った激しい揺れ。小さい頃から「雄勝町には津波が来る」と聞いていたことを思い出し、佐藤さんは当時小学生だった長男と長女を連れて高台へと避難しました。
しかし・・・
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「避難訓練で常にそこに避難していますから、逃げた気になっているんですよね。周りの人たちが声を上げているんです。津波きたど!津波だ!大津波だ!って。高台に来てそんなこと言ってるから『えっ?』ってなった。そしたら誰か一人が『山だ!山さ上がれ』って男の人が声をかけたんです」
雄勝町を襲ったのは、想像を遥かに上回る高さ20メートルを超える巨大な津波。
佐藤さんは子供たちとともに近くの山に命からがらよじ登りましたが、その足元では、津波が佐藤さんの車や自宅とともに町のほぼ全域を飲み込んでいきました。
入院していた佐藤さんの90代の祖母と、祖母を助けに向かったと見られる60代の母親は、津波から逃れることができませんでした。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「屋上に避難していた患者さん、動けない患者さんとか看護師さんとか病院の先生、職員の人たち。(父には)その人たちが上からガブガブ水を被っているのが見えたし、声が聞こえたそうです。苦しいときの声がみんな聞こえてたって言うんですよね。うちの父親はそれを見ながら、そこにピーちゃん(佐藤さんの祖母)と自分の奥さんがいるのに『助けられなかった』『手を出せなかった』と泣き泣き教えてくれました」
佐藤さんの体験を聞いた人たちの多くは「貴重な話をありがとう」と口にするといいますが、佐藤さんは「これは貴重な経験ではない」と繰り返しました。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「東日本大震災で同じような目に遭っている人、もっとつらい目に遭っている人がいっぱい、ごろごろいるんです。被災するってそういうことなんです。」
佐藤さんの話を聞いて、参加した人たちは語り合いました。
(参加者は)
「頭ではわかっているつもりだけど、自分のことにできていないのが実情なので、それを思い知りますよね」
(参加者は)
「日頃から自分ごとで考えるというか、対策や避難場所を考えないといけないんだと思いました」
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「『何かあっても必ず生きて再会しようね』って約束だけは取り付けていてほしいんです。広く伝えなくてもいいんです。皆さんが失いたくない人だけでいいので、せめてそれだけはやってていただきたいんです。そうするとちょっと変わると思うんです。」
津波が来た時に自分はどこに逃げるのか、日頃から独り言で口にして聞かせるだけでも、いざという時に周囲の行動が変わるかもしれないと佐藤さんは話します。
『何かあっても必ず生きて再会しよう』
津波で大切な人を失った佐藤さんのメッセージです。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「雄勝町はここになります。私が生まれ育ったところはここです。海岸線がぐちゃぐちゃとしているリアス式海岸と呼ばれるところになります」
宮城県石巻市雄勝町出身の佐藤麻紀さん。
東日本大震災で被災した経験を教訓にしてもらおうと、語り部として全国各地に足を運んでいます。
3月8日はJICAデスク宮崎が企画した防災講座で、約50人を前に当時の様子を語りました。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「ものすごく揺れました。ガタガタガタガタって。大きい箱に小さな人形を入れてシェイクしたような体感でした」
スーパーで勤務中だった佐藤さんを襲った激しい揺れ。小さい頃から「雄勝町には津波が来る」と聞いていたことを思い出し、佐藤さんは当時小学生だった長男と長女を連れて高台へと避難しました。
しかし・・・
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「避難訓練で常にそこに避難していますから、逃げた気になっているんですよね。周りの人たちが声を上げているんです。津波きたど!津波だ!大津波だ!って。高台に来てそんなこと言ってるから『えっ?』ってなった。そしたら誰か一人が『山だ!山さ上がれ』って男の人が声をかけたんです」
雄勝町を襲ったのは、想像を遥かに上回る高さ20メートルを超える巨大な津波。
佐藤さんは子供たちとともに近くの山に命からがらよじ登りましたが、その足元では、津波が佐藤さんの車や自宅とともに町のほぼ全域を飲み込んでいきました。
入院していた佐藤さんの90代の祖母と、祖母を助けに向かったと見られる60代の母親は、津波から逃れることができませんでした。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「屋上に避難していた患者さん、動けない患者さんとか看護師さんとか病院の先生、職員の人たち。(父には)その人たちが上からガブガブ水を被っているのが見えたし、声が聞こえたそうです。苦しいときの声がみんな聞こえてたって言うんですよね。うちの父親はそれを見ながら、そこにピーちゃん(佐藤さんの祖母)と自分の奥さんがいるのに『助けられなかった』『手を出せなかった』と泣き泣き教えてくれました」
佐藤さんの体験を聞いた人たちの多くは「貴重な話をありがとう」と口にするといいますが、佐藤さんは「これは貴重な経験ではない」と繰り返しました。
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「東日本大震災で同じような目に遭っている人、もっとつらい目に遭っている人がいっぱい、ごろごろいるんです。被災するってそういうことなんです。」
佐藤さんの話を聞いて、参加した人たちは語り合いました。
(参加者は)
「頭ではわかっているつもりだけど、自分のことにできていないのが実情なので、それを思い知りますよね」
(参加者は)
「日頃から自分ごとで考えるというか、対策や避難場所を考えないといけないんだと思いました」
(東日本大震災の語り部 佐藤麻紀さん)
「『何かあっても必ず生きて再会しようね』って約束だけは取り付けていてほしいんです。広く伝えなくてもいいんです。皆さんが失いたくない人だけでいいので、せめてそれだけはやってていただきたいんです。そうするとちょっと変わると思うんです。」
津波が来た時に自分はどこに逃げるのか、日頃から独り言で口にして聞かせるだけでも、いざという時に周囲の行動が変わるかもしれないと佐藤さんは話します。
『何かあっても必ず生きて再会しよう』
津波で大切な人を失った佐藤さんのメッセージです。
最終更新日:2025年3月11日 21:09