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2022年5月16日 20:38

「日本復帰の日」に結婚 夫婦で歩んだ沖縄の50年とは

「日本復帰の日」に結婚 夫婦で歩んだ沖縄の50年とは

50年前の5月15日、沖縄が日本に復帰した日に結婚した夫婦がいます。2人は共に支え合いながら、平和とアメリカ軍基地の削減を願いこの半世紀を歩んできました。

■復帰50年の日は「金婚式」に

きのう、金婚式をむかえた沖縄県の金城健一さんと弘子さん。結婚したのは、沖縄が本土に復帰した1972年5月15日です。健一さんは、この50年をこう振り返ります。

「家族にとってはいい50年だった。ただ(沖縄にとっては)全く平等じゃない50年が続いてきた」

■父は戦死 占領下の沖縄を本土で訴え そして結婚

健一さんが暮らすのは沖縄県の北部、大宜味村。太平洋戦争末期の1945年、健一さんは、アメリカ軍の沖縄上陸の2か月ほど前に生まれました。当時の様子をこう聞いていると言います。

「(爆弾があたらないように)畳の山を作って、産婆さんが中に入って(母は)お産をした」

父親は、地元の部隊に召集され沖縄戦で戦死。遺骨さえ帰ってきませんでした。

健一さんの妻、弘子さんも1945年生まれ。隣の村どうし、高校生の頃に知り合いました。

弘子さん「もともと顔見知りではあったんですよ。文通をしてました」

健一さん「最初から(この人と結婚すると)決めてました。意気投合して」

敗戦後、アメリカの統治下に置かれた沖縄。アメリカ軍基地は拡大し、核兵器も持ち込まれていました。さらに、幼い子供たちも巻き込まれる軍関係者による事件や事故も頻発しました。

罪を犯したアメリカ兵を日本でさばけない現実――。これではいけないと強く思うようになった健一さんは、その思いを、高校1年生の時に本土で行われた全国弁論大会でぶつけ、最優秀賞を受賞。東京の大学に進学後も沖縄の復帰運動に没頭しました。

1960年代後半、“国境”となっていた鹿児島の与論島と、沖縄の国頭村の間の北緯27度線では、たびたび「海上集会」が行われていて、健一さんもここに参加して沖縄返還を訴えました。

健一さん「与論島と国頭の辺戸岬は距離は22キロです。それだけ近い距離なんです。そこに国境が立ちふさがったんですよ。パスポートなしでは行き来できない見えない境界線だった」

■夢見た「復帰の日」に結婚 裏切られた「希望」

健一さんは大学卒業後、沖縄にもどって那覇市長の秘書となり復帰交渉の最前線に立ちます。日本復帰の日が1972年5月15日と決まると、弘子さんとの結婚式もこの日に決めました。

“復帰と共にアメリカ軍基地はなくなる”

沖縄の夢が叶う日に、結婚生活をはじめよう。そんな希望を抱いていたのです。しかし、健一さんは基地負担が本土並みとなるという理想と、現実がかけ離れていることに気付きます。

健一さん「内閣官房とか総理官邸とか部屋から出てきた市長の顔を見ていると、今日の交渉も厳しかったんだな…と。それがだんだんだんだん重なってきて、“核抜き本土並み返還”は、何かまやかしがあるんじゃないかと(思うようになった)」

■「不平等なんとかして欲しい」 復帰後の現実は…

そして1972年5月15日。結局、沖縄は、日本にあるアメリカ軍基地の7割以上を抱えたまま本土に復帰。

その日、2人は予定通り結婚式をあげましたが…招待状には、理想とは、ほど遠い形で復帰と結婚式を迎えたことへの、複雑な心境がつづられていました。

「叫び続けてきた返還が5月15日として突きつけられても、 感動が伴わないのはなぜだろう?」
「あまりにも、かけ離れたものでしかないのだから…」

復帰後も、那覇市議や市役所の職員として基地の削減や移設問題と向き合ってきた健一さん。基地反対の人間の鎖にも参加するなど、機会があるごとに安心して暮らせる沖縄になるよう訴え続けてきました。

弘子さんは、そんな健一さんを一番の理解者として支えてきました。

弘子さん「沖縄のこういう問題のことばかり考えていたらイヤな思いをすることもしばしばでした。彼はずっとずっと向き合って歩いているので。ぶれないというのはすごいですね」

しかし、復帰後も健一さんたちの訴えは届きませんでした。基地はなくならないまま、アメリカ軍関係者の事件や事故も後を絶ちません。

“変わらなかった50年”。

その象徴の1つでもある、普天間基地の移設先、辺野古で健一さんはこう訴えました。

健一さん「復帰50年たってもここにまた新しい基地を作るのかと。日本全国の0.6%しかない沖縄の土地に7割の(米軍)基地を集中させている。沖縄の基地負担を軽減してほしい。アメリカが、日本がすべて悪いとは言ってないんです。この不平等をなんとかしてほしい」

■「屈辱の日」から70年 「分断」されたあの海へ再び

4月28日。70年前、サンフランシスコ講和条約で沖縄や奄美が日本から切り離され、沖縄では“屈辱の日”と呼ばれたこの日に、健一さんは漁船に乗り込みました。

船は、北へ。見えてきたのは、鹿児島・最南端の与論島です。

分断の歴史を語り継ごうと、健一さんが大学生のころ参加した海上集会が地元自治体の主催で再現されたのです。54年ぶりに訪れた健一さんは、復帰運動で歌われていた歌を久し振りに口ずさみました。

■子や孫に語り継ぐ「平和」 基地の現実を前に複雑な思いも

健一さんが毎年、家族で訪れる場所があります。沖縄戦などで亡くなった24万人あまりの名前が刻まれた平和の礎です。

つながっていく“平和な沖縄”への思い。一方で、基地と共存せざるをえない現実の中で、子どもたち世代の価値観は、少しずつ変わってきているようです。

健一さんの二女、歌奈子さんはこう話します。

「基地で働いている方はこれで生活をまかなっている方もいるので。基地がなくても、平等に平和に生活できるような沖縄にできないのかなといつも思います」

また、大学生の孫のはなりさんは…

「一概に(基地が)あってはいけないとか、なきゃいけないとか、そういうのは言えないのかなと思っていて。(賛成と反対)どっちの立場の人も共存しているからこそ、それを沖縄の箱の中だけで、とどめてはいけないなと思います。もう少し遠くまで発信して、(本土の人も)一緒になって考えられたらと思います」

■金婚式で”サプライズ” 夫婦の思いは…

むかえた、本土復帰50年の5月15日。そして結婚50年の日。健一さんと弘子さんに家族からサプライズが用意されていました。金婚式のプレゼントです。

色とりどりの画用紙でつくられた、50本の花束。お花が大好きな2人のために孫のまどかちゃんが手作りしたものです。

「2人で50年しっかりと生きてきた証ですね、嬉しいです」そう言いながら笑顔を見せた健一さん。平和への決意を新たにしていました。

「子どもや孫たちにこれから後も銃をとらせない生活を守っていきたい。これからも2人で歩み続けますよ」


※詳しくは動画をご覧ください。(2022年5月16日放送「news every.」より)