吉田調書からみる「菅首相ら政府に不信感」
政府は11日、福島第一原発事故に関する政府の事故調査・検証委員会が、去年死去した当時の吉田昌郎所長に聴取して非公開となっていた記録、いわゆる「吉田調書」を公開した。調書からは吉田元所長が当時の菅首相ら政府に対し不信感を強めていった様子がわかる。危機対応における指揮命令系統に問題はなかったのだろうか。
調書にはこのような記載がある。
「かなり厳しい口調で、自由発言できる雰囲気じゃないじゃないですか、首相の場合」
2011年3月12日朝、当時の菅首相が福島第一原発を視察に訪れた。このとき、厳しい口調で質問されたと語った吉田元所長。
「十分に説明できたとは思っていません」
菅元首相が視察を終えた約7時間半後、1号機は水素爆発を起こした。
その1号機からわずか数十メートルのところにある中央制御室。危機を回避するため、水素爆発の直前まである作業が試みられていた。原子炉の圧力を下げるため、蒸気を外に逃がす「ベント」だ。作業が難航する中、当時の海江田経産相はベントを早く実施するよう求めていた。
しかし、吉田元所長の心中は…。
「一番遠いのは官邸ですね。要するに大臣命令が出ればすぐに開くと思っているわけですから」「できるんだったらやってみろと」
吉田調書からは、こうした首相官邸や原子力安全・保安院の対応にいらだちや不信感を強めていく様子がうかがえる。
「保安院来てやれ、ばかやろう。こんな腐った指示ばかりしやがってと」
そして、当時の菅首相に対しても厳しい口調で不満をぶつけている。
「アホみたいな国の、アホみたいな政治家」
2011年3月15日早朝、東電本店に乗り込んだ菅元首相。テレビ会議の映像には、手振りを交えて話している様子が映っている。
吉田調書とともに11日に公開された菅元首相の調書には、このときの発言について以下のように記されている。
「日本がつぶれるかもしれないときに撤退はあり得ない。会長、社長も覚悟して決めてくれ。60歳以上が現地に行けばよい。自分はその覚悟でやる」
この様子はテレビ会議を通じて福島第一原発にも届いていた。
事故対応を続けながら、菅元首相の言葉を聞いた吉田元所長は…。
「ほとんど何をしゃべったかわからないですけれども、気分悪かったことだけ覚えていますから」
さらに“全面撤退”を考えていたとされたことについては、強い口調で否定した。
「『撤退』みたいな言葉は、菅が言ったのか、誰が言ったか知りませんけれども、そんな言葉、使うわけがないですよ」
質問者「菅さんがある時期、『自分が東電が逃げるのを止めた』と言っていた」
「あのおっさんがそんな発言する権利があるですんか」
こうした発言に対し、菅元首相は11日、「吉田さんというのは率直にものを言う人ですから、その時点で吉田所長として感じたことを率直に言われたと思う。撤退の問題は、私のところには清水社長(当時)の話を聞いた各大臣からきたわけです」と述べている。
全面撤退の件については「当時、東京電力の社長の清水氏から
当時の海江田経産相や枝野官房長官に相談があった」と語った。
「私と吉田さんとの間で何か食い違いがあったかというと、私は特に食い違いがあったとは思いません」
また、自らの言動が事故対応の混乱につながったのではとの指摘については…。
「多少の負担をかけたとしても、住民の避難を判断する上では原子炉の状況を聞かざるを得なかった。立場は違うが、それぞれが責任を果たす上でやらざるを得なかったこと」
一方、事故はなぜ防げなかったのか。吉田元所長は福島第一原発の所長になる以前、津波対策などを検討する役職に就いていたが、津波対策が不十分だったことについては「当時の想定ではやむを得なかった」と話している。
「マグニチュード9が来ると言った人は、今回の地震が来るまでは誰もいないわけですから、それをなんで考慮しなかったんだというのは無礼千万だと思っています」「原子力ですから費用対効果もあります。何の根拠もないことで対策はできません」
事故から3年半。吉田調書から浮かび上がった教訓をどう生かしていくのか問われる。