東京大空襲の記録「抹殺じゃないか」……1億円で「証言」撮影、公開は3分の1のみ お蔵入り30年ナゼ?【#みんなのギモン】
そこで今回の#みんなのギモン では、「埋もれた証言 なぜ公開されない?」をテーマに、次の2つのポイントを中心に解説します。
●貴重な証言 なぜお蔵入りに?
●どうすれば公開できる?
「3月10日は79年前、東京大空襲があった日です。当時を知る人の証言をめぐる問題を考えます」
「東京大空襲があった1945年3月10日に撮影された写真があります。場所は浅草で、荷車を引く人が写っています。その奥は焼け野原です」
「真夜中の0時すぎから2時間半にわたる空襲で、下町の地域を中心に被害が出ました。10万人が亡くなったとされ、爆撃による犠牲者数としては広島の原爆に次ぐ多さです」
「鈴江さんは当時のことを聞いたことはありますか?」
鈴江奈々アナウンサー
「私の祖父母は当時10代だったのでその記憶は鮮明で、話を聞いたこともあったんですけれども、今は聞きたくても聞ける状況ではないので、もっと聞いておけばよかったなという後悔はありますね」
小野解説委員
「今年2月から東京都が、東京大空襲の当時を知る人の証言映像を公開する場を設けています」
空襲当時6歳
「リュック背負った方のリュックと背中の間に焼夷弾が落ちまして、熱いですし、川の中に飛び込まれたんじゃないかと思うんですね」
空襲当時17歳
「火の手が上がって、焼けた布団だとか家財道具だとか、いろいろな物が飛んでくるんですよ。前の日まで6人みんな一緒だったのに、一夜明けたら私1人になっちゃった」
小野解説委員
「この証言映像は2月に初めて公開されたものですが、撮影されたのは1990年代の後半です。約30年前に撮影されたものが、今になって公開されたということです」
「それ自体なぜ?と思いますし、これを見るためには池袋や三鷹などの施設に行かないと見られません。その上、長くても2週間の期間限定の公開です」
辻岡義堂アナウンサー
「インターネットでの公開もないんですか?」
小野解説委員
「公開していません。最も注目したいのは、約30年前に東京都が記録した証言映像は330人分ですが、公開したのはその3分の1の122人分だけという点です。残り200人以上の証言はどこに行ったのか。約30年間、倉庫にしまわれたままお蔵入りになっています」
小野解説委員
「その理由は何でしょうか。東京都は1990年代前半に、東京大空襲を記録して展示する『平和祈念館』を建てようと計画しました。当時作成された館内のイメージ図では、再現模型や写真などを用いて戦争と平和を考える施設を目指しました」
「『証言映像』という記載もあります。当時を知る人の証言を上映する計画で、そのために都は1億円をかけて生存者を探し出し、330人の証言をビデオカメラで記録しました。ところが、祈念館をつくる計画そのものが頓挫しました」
「当時はもめました。戦争全体を伝えるべきとする側と、東京大空襲の被害のみに絞ろうとする側で対立し、議論がまとまりませんでした。加えて、都の財政難もありました。せっかく証言を撮ったのに展示する場所がなくなりました」
市來玲奈アナウンサー
「1億円をかけた貴重な証言ですよね。私たちの世代が次の世代にしっかりと伝え続けていくことも本当に大切だと思います。祈念館以外での公開(という選択肢)もあったのかなと…」
小野解説委員
「それもできませんでした。祈念館での公開を条件に集めた証言だったからです。証言を撮影する際、相手に渡された同意書には『祈念館の資料として利用する』『同館が学術などの発展に資すると認めるものに限り』などと書いてあります」
「つまり、祈念館での公開以外の目的で使う同意を得ていないので、公開するには改めて本人たちの同意を得なくてはならないということです。そこで東京都は2022年、本人またはおおむね二親等以内の家族の同意を得ようと、同意書を全員の住所に送りました」
「330人のうち同意が得られたのは122人。撮影から約30年も経ち、宛先不明で戻ってきてしまうことや音信不通のケースが多くありました。連絡がつかない以上、同意が得られないままなので、残りの約200人の証言はいまだに公開される見通しが立っていません」
忽滑谷こころアナウンサー
「330人の方がつらい記憶もあった中で一生懸命語ってくれた声で、本当に貴重ですし、お蔵入りになってしまうのはあまりにももったいないですよね」
小野解説委員
「証言した方の多くは、当時経験したことをなんとか後世に伝えなくてはいけないという思いで協力しました。公開に同意した1人に取材しました」
村岡信明さん(92)
「上にチラチラ花火のように焼夷弾が落ちてくる中で、(人が)もがくんですね。もがくというのは、当時それを“死踊り”と言ったんですよ。死踊りで死んでいくんですよ」
小野解説委員
「このように鮮明に覚えています。空襲があった当時、村岡さんは中学1年生で現在の江東区に住んでいました。自身の証言が公開に30年かかったことや、いまだ公開されない証言があることについて聞きました」
村岡さん
「(同意書に)私は『大いに活用してください』と書いています。歴史的な事件ですから大いに残したいと思うし、発表したいという気持ちがありましたから。きつい言葉で言えば、抹殺じゃないかと思いますね。東京大空襲の記録を」
鈴江アナウンサー
「抹殺という強い言葉の裏側で、それだけ強く伝えたいという思いが伝わってきました。だとすると期間限定など今の展示のあり方には、いろいろ疑問が残りますね」
小野解説委員
「『公開されているものがあるから、それでいいじゃないか』と考える人がいるとしたら、そう思わないでいただきたいです。注目したいのは、お蔵入りになっているものにどんな証言があるかということです。今回、その内容の一部を入手しました」
空襲時23歳頃
「(川の中にいた)妹が(冷えて)仮死状態になっていたので、慌てて焼けトタンを敷いた上に寝かせて焼け土をかけて温めると、じきに生き返った」
同29歳頃
「全員が北を向いて500人位が座禅を組んでいるような焼死体があった」
同8歳頃
「人々は折り重なり、下になった人は窒息死、上にいた者は焼死し、真ん中の人だけが助かった」
辻岡アナウンサー
「戦争の悲惨さ、絶対に戦争は駄目なんだという気持ちになりますよね」
小野解説委員
「当時を知る人しか語れない証言の中に、新事実が隠されているかもしれません。では、どうすれば公開できるのか。1日、小池都知事に会見で聞きました」
――約200人の証言の公開はできるのか?
小池知事
「まだ非公開のままの方々については、引き続き意向確認を行っていく」
小野解説委員
「同意を得ていくという回答ですが、私たちが取材する中で少々疑念が浮かびました。都が『連絡がつかなかった』とした証言者の家を訪ねたところ、本人は10年前に亡くなり、確かにそこは空き家になっていました」
「しかしその隣に弟が住んでいて、弟は『初めて知った』『映像を確認して検討したい』と言っていました。つまり、もう少し本腰を入れたら同意を得られる方も増えるのではないでしょうか」
鈴江アナウンサー
「戦争で何が起こったのかを知ることが、平和な社会をつくる土台になると思います。私たち戦争を知らない世代が戦争を知る機会をつくる努力は、惜しまないでもらいたいなと思います」
小野解説委員
「来年は東京大空襲から80年の節目です」
(2024年3月8日午後4時半ごろ放送 news every.「#みんなのギモン」より)
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