【NNNドキュメント】あの日の小学生が警察官に 行方不明の祖母とこれからへの思い 東日本大震災13年~生きる支え~ NNNセレクション
東日本大震災から13年。当時の子どもたちも成人し、それぞれの道を歩んでいる。津波で祖母が行方不明となった男性は24歳に。命を守りたいと警察官の職を選んだ。震災で何を失い、何に光を見出したのか。そして、今の「生きる支え」は。
『東日本大震災の時、僕は小学生でした』
海藤さん
「岩手県警察・盛岡東警察署菜園交番で勤務をしております、海藤成樹と申します」
今の仕事は市民の命を守る警察官。海藤さんが採用されてから、まもなく2年になります。
いつも優しかった祖母のミネ子さん(震災当時59歳)。津波で今も行方不明のままです。
震災から約1か月後の2011年4月。なぜか、あの年の桜はいつになく見事でした。
「おはよう」
避難先の小学校で1学期の始業式が行われました。小学6年生、児童会長になった海藤さん。
海藤さん
「3月11日の東日本大震災の津波で、僕たちの鵜住居小学校の校舎は使えなくなってしまいました」
海藤さんが通っていた小学校の校舎は、3階部分まで津波にのまれました。
海藤さん
「みんなで助け合いながら、この震災に負けない強い心でがんばっていきましょう」
あれから13年。24歳になりました。
海藤さん
「地震とか津波に対して、もちろん小学校の時からずっと避難訓練だったりとかで私は学んでいたんですけども、もし、もっと祖母に『(津波の時は)こうしてね』って言えていれば、助かったかもしれないですし」
踊りの会を率いて多くの弟子を抱えていた、祖母のミネ子さん。
ミネ子さん
「会場のみなさま、弟子たち、私の家族のおかげだと思っております」
祖母も一緒に住んでいた自宅は、津波で流されました。
海藤さん
「ここが震災前まで住んでいた自宅の敷地になるんですけれども」
あの日の朝も、いつものように優しく見送ってくれた祖母。兄の影響で保育園の頃、剣道を始めた海藤さん。祖母はいつも応援してくれました。
岩手県警察には武道の枠で採用されました。特別に選ばれた訓練員として、交番勤務をしながら鍛錬を積んでいます。
海藤さん
「(震災を)忘れて剣道に没頭できるというので、剣道には救われてたんじゃないかなと思います」
就職活動の際、思い浮かんだのが避難所の体育館で遊んでくれた警察官のこと。
海藤さん
「自分の今までの人生振り返って、苦しい時に(警察官が)助けてくれた」
“今度は自分が命を守る”
海藤さん
「同じような災害が起きた時に、同じようなことをしてあげられれば、私と同じような気持ちや感情を持ってくれる方が増えて、少しでも心にゆとりができるのかなっていう風に思ったので、警察官っていう職業を目指そうかなと思いました」
その選択に迷いはありませんでした。
「卒業証書。岩手県巡査・海藤成樹」
いまは交番勤務の警察官として、安全と安心に目を配る日々。
1月、婚姻届を出しました。妻となった村上麗那さん(24)は、釜石市で看護師をしています。麗那さんも津波で自宅を流されました。小学校を卒業後、海から離れた場所での生活を希望する母の意向もあって、市中心部の中学校に進んだ海藤さん。そこで、ふたりは出会いました。
麗那さん
「お互い被災してるので、分かり合える部分もあるかなとは思います」
これからは守るべき人がいる。
海藤さん
「生きる支え…。やはり家族の存在が一番大きいのと、『亡くなった祖母の分まで楽しく生きてやろう』という意地というのは、私のなかではあります」
絶望の淵に立たされたあの日から13年。それでも“生きる支え”はきっと見つかる。
今、悲しみに打ちひしがれるあなたも。
2024年3月11日放送 NNNドキュメント’24『3・11大震災シリーズ(105) 東日本大震災13年 生きる支え 私のこれまでとこれから』をダイジェスト版にしました。