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“釜石の奇跡”当事者の葛藤、教訓伝える26歳「命守るため」 東日本大震災からまもなく13年

2024年3月8日 5:31
 “釜石の奇跡”当事者の葛藤、教訓伝える26歳「命守るため」 東日本大震災からまもなく13年
東日本大震災からまもなく13年。“釜石の奇跡”――小中学生ら約570人が津波から迅速に避難して、このように称賛されたのですが、当事者にはある葛藤がありました。

(※動画の中で津波の映像が流れます。ストレスを感じた場合は視聴をお控えください)

   ◇

今月3日、岩手県釜石市で慰霊碑を見つめていたのは紺野堅太さん(26)です。13年前、兄のように慕っていた大切な人を亡くしました。

紺野堅太さん(26)
「できることなら生きていてほしかったなと思いますし、まだ会って遊びたかったなという思いはありますね」

   ◇

2011年3月11日、岩手・釜石市に巨大な津波が押し寄せました。

当時、中学1年生の紺野さんが通っていた釜石東中学校があったのは、海から約500mの場所です。最初に激しい揺れを感じたのは、3階の教室にいたときでした。

紺野堅太さん
「立てなかったので、四つんばいになって、机の下に隠れて揺れが収まるまで机の脚を持って待っていた」
「山沿いのほうの道を走って奥の方まで(逃げた)」

当時の写真には、子どもたちが列をつくり、手をつないで避難している様子が写っていました。

釜石東中学校と隣接する鵜住居小学校では、日常的に防災訓練が行われ、この日も津波から逃れるため、訓練どおり高台を目指しました。

坂をのぼり避難したという紺野さん。すると…

紺野堅太さん
「さっきまでいた街の方見たら、もう街のほとんどが黒い海になっていて。(ここで)はじめて津波を見て、あの瞬間は誰か言葉発するとかそういうこともなく、ただ本当にぼう然と、もう街なくなるんだという感じで」

その後、一度も振り返ることなく、さらに上の高台まで走り続けたといいます。一緒に避難できた子どもたち、その数は約570人。メディアなどから“釜石の奇跡”と称賛されました。

   ◇

しかし、紺野さんの思いは複雑でした。

紺野堅太さん
「当時は奇跡と呼ばれるのはすごく違和感がありましたね。奇跡って言葉だけで称賛して終わり、きれいな部分だけみせて終わりにはしてほしくなかった。大切な人も亡くしてしまいましたし」

大切な人とは、紺野さんの幼なじみです。自分たちは助かった一方で、釜石市で亡くなった人は912人(関連死含む)。152人の行方がわかっていません(2021年3月時点)。

そんな中で“釜石の奇跡”と美談にされることへの強い違和感――

紺野堅太さん
「自分たちは常日頃からやっている避難訓練を、ただ実際にやっただけなので、当たり前のことなので」
「(大規模な)自然災害が起きたときに、亡くなる人が0人になることが、僕のなかでは奇跡だなと思う」

その思いを胸に紺野さんが行っているのが、当時の状況や教訓を伝える活動です。

紺野堅太さん(三重・鈴鹿市、今月2日)
「釜石東中学校の生徒が率先して避難して、自分の命を自分で守るという思いで高台に逃げて」

各地をまわり、今月は三重県で自身の経験を話していました。

紺野堅太さん
「僕が大切な人を亡くしてすごく悲しかったので、そういう思いをこれから生きていく人にしてほしくない。もっとこういう声がけをしたら助かったのではないか、というのは話すたびに常々、頭に浮かんでいますし、後悔の念も持ちつつ話していますね」

今年1月には能登半島地震が発生。“1人でも多くの命を救いたい”という気持ちをさらに強くしました。

紺野堅太さん
「建物の火災、津波の映像見て昔のこと思い出しちゃって(映像を)最後までは見られなかったですね」
「日本海側のほうにまだ講演にいったことがないので、自分が東日本大震災の経験を話していればもっと助かった人がいたんじゃないか」

   ◇

東日本大震災からまもなく13年。

紺野堅太さん
「当たり前の世界が続かないのは、13年前に実際に身にしみて体験しているので、自分の大切な人を守るためにも、まずは自分の命を守る。生きていれば会えるので、どうにかそのとき生きられる方法を備えてほしい」

(3月7日放送『news zero』より)