「一緒に前を向いて生きたい」 “釜石の奇跡”…葛藤とともに伝える26歳 【311東北から能登へ】
■震災から2か月「気持ち的にも落ち込んでいた」
紺野堅太さん
「辛かった。学校が再開されるまで時間がかかりましたし、好きな野球もできる環境じゃなかった。今まで当たり前だったことができない日常になってしまった」
地域住民含め、約600人が津波から逃げ切った行動は“釜石の奇跡”と呼ばれた。しかし、自分たちは助かった一方で、命を落とした友人もいたという。
紺野堅太さん
「祖父母の家に避難していたので、なかなか友人にも会えませんでしたし、大切な人が亡くなったっていう知らせも情報としてでもあっただけで、遺体を見たわけでもなかったので、信じられなかった」
「(震災から)2か月の間は、気持ち的にもすごく落ち込んでいた時期でもありました」
■僕の思い出が「元気のない紺野堅太」だったら嫌だな
気持ちの変化が起きたのは、「こんな自分だったら嫌だな」と思ったことがきっかけだった。
紺野堅太さん
「亡くなった大切な人たちが生きられなかった日を、僕は今過ごしているんだというふうに気づいた時に、心残りなく、今日も懸命に生きていこうと。そして、今生きている人たちにも、自分が懸命に生きている姿を見せたいなと思った」
「例えば自分が死んだ後に、周りの人の僕に対する思い出が『元気のない紺野堅太』だったら嫌だな、と思ったので。そういう考え方になってからはもうすごく前向きになることができた」
会社員の紺野さんは、土日を利用して「語り部」のボランティアとして、講演を行っている。
■支えてくれた人に「もっと元気な姿を見せたい」
1人でも多くの命を救いたい―――。この気持ちをさらに強くしたのが、能登半島地震だという。
紺野堅太さん
「全国の方々から支援していただいて、やっぱり自分一人じゃ生きていけないっていうのも実感した中で、支えてくださった人たちにもっと元気な姿を見せたいっていう風に気持ちが変わっていった」
「自分自身…というよりは、時間もですし、周りの人の支えもあった。私も今後、語り部活動を続けるし、これからも能登半島地震で被災された方々にも支えとなるような活動を続けていきたいと思う。一緒に前を向いて生きていければいいなというふうに思います」