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新潟に残る爪痕 地震と津波と液状化…育った家は「全部撤去」 【能登半島地震】

2024年3月5日 19:00
新潟に残る爪痕 地震と津波と液状化…育った家は「全部撤去」 【能登半島地震】
元日の能登半島地震は、石川県のみならず、新潟県でも大きな被害をもたらしました。地震と津波、そして液状化―――。発生から2か月がたちながらも、道路や建物など、手つかずのまま、その爪痕を残す場所も多く残されています。

■「これはただごとじゃ済まない」

能登半島地震の発生で忘れられない日となった2024年の元日―――。その時、新潟でも、多くの被害がおきていました。

新潟・上越市で、港に迫る津波の動画を撮影したのは、高校1年生の高原楽歩(がくと)さんと父・一歩(かずと)さんでした。

高原一歩さん
「まさか、あの高さを超えてくると思っていなかったので」
「車も通り人もいたので、大きい声で叫んで、『津波きてるよ!』『早く上がれ!』と叫んだと思う」

地震が起きたのは家族4人、リビングで過ごしていた時でした。

高原楽歩さん
「人生で経験したことのない揺れで、これはただごとじゃ済まないなと。少し覚悟をしましたね」

■時速350キロメートル 新幹線よりも速く…

午後4時12分、テレビから聞こえてきたのは「津波警報」を伝える声。その1分後には、すぐに家の外に飛び出しました。

高原一歩さん
「(家から)出てこられていない方もいらっしゃった」
「私はとにかく大声で『津波来るよ』ということを伝えながら、まずとにかく旧学校の玄関を目指しました」

一歩(かずと)さんは近所に避難を呼びかけながら、100メートル先の避難場所へと走りました。

午後4時14分、避難場所に到着すると、玄関の前にはすでに数人の姿がありました。カギを管理する住民も到着していましたが、焦りからか開けることができませんでした。

高原一歩さん
「もう時間がないと思って、ブロックを投げてガラスを割ったんです」

撮影された動画から、この地域に津波が押し寄せたのは遅くとも午後4時34分。

高原一歩さん
「本当にくるんだ、と。津波って」
「今回以上に高い津波がきたときに、もっと早く到達したときに、どうしようと考えなければいけない」

第一波が到達した時間が上越市で19分、糸魚川市では8分で到達していた可能性があるといいます。

長岡技術科学大学・犬飼直之准教授
「津波が伝播するスピードは水深だけで決まってくる」
「だいたい時速350キロメートルくらい。新幹線よりも速いスピードで伝播(でんぱ)している」

■車で走り出して数十秒 親戚が「いないって」

東日本大震災では、津波により多くの命が奪われました。今回は、地震の発生直後に津波警報が発表。住民はどう動いたのか。

新潟市に住む和田正紀さん
「海がこれだけ近いので、恐怖がすぐ。ここに波が見えたら終わりだと思ってるんで」

1月1日の午後4時10分―――。和田さんは家族と親戚、合わせて11人で夕食を囲んでいた時、大きな揺れに見舞われました。

津波警報の発表から3分後の午後4時15分、妻・希美子さんは母親と妹、そして2人の子どもを車に乗せて高台へ避難を始めました。一方の正紀さんは、東京から来た親戚が津波に対して危機感がなく、説得に時間がかかっていました。

和田正紀さん
「口調も荒くなって、『早く早く』って感じになりました」

午後4時25分。地震からおよそ15分後に、希美子さんたちは高台へ到着しました。その頃、ようやく、正紀さんたちも家を出発しますが、車が走り出して数十秒後、“あること”に気付きました。

和田正紀さん
「え、お兄ちゃんがいないみたいな感じで気づいて―――」

娘から連絡があり、親戚のひとりが、まだ家にいることがわかったのです。午後4時30分ごろ、自宅に引き返した正紀さん。すでに地震から20分以上が経過していました。その頃、上越市・柏崎市ではすでに津波が観測されていました。

和田正紀さんは、親戚を連れて再び高台を目指しましたが、多くの住民が車で避難をしたため各地で渋滞が発生。「もし波が来たらどうしようっていう不安」のなかで、バックミラーを見ながらの運転。地震発生から、約40分後(午後4時50分)ようやく高台へ到着し、家族と合流することができました。

和田正紀さん
「スピード感を持ってやらないと。とにかく命にかかわるといけないので、その点が反省ですね」
「もし本当に大きいの(津波)が来ていたら…。ぞっとする」

大切な人を守るため、より高い場所に避難することを決めていました。

■カメラがとらえた液状化 道路から徐々に水が…

新潟では、今回の地震で液状化現象で大きな被害をもたらしました。道路は波打ち、至るところで陥没がおこりました。

新潟市・寺尾地区にある、ビジネスホテルを経営する勝島猛さんは、建物が傾き、客室の半分は使うことができなくなったといいます。

ホテル寺尾・勝島猛社長
「いま(宿泊客は)お断りしています。この状態では申し訳ないので…」

ホテルの監視カメラは、液状化の瞬間をとらえていました。地震の瞬間に、歩道橋や電線は大きく揺れ動き、駐車場では地面の一部が盛り上がって、亀裂が入りました。地面から徐々に染み出した水で、道路はあっという間に泥水に浸ってしまいました。

液状化は、地表付近の水を多く含んだ砂が、地震の震動によって液体のようになり、構造物が浮いたり沈んだりする現象のことです。

ホテル寺尾・勝島猛社長
「どのくらいの規模になるのかわからないので被害額はわかりませんけど、損害保険やいろいろと電話しているんですけどね…。まだわからないですね」

新年早々に直面した、経営の危機。勝島社長は「どうしましょうかね、本当にね。どこも本当に大変なんでしょうけど」とため息をつきました。

■喜んだり泣いたり「たくさんあった家」

住宅に深刻な被害を受けた人もいました。新潟市の青柳智子さんの自宅は、変わり果てた姿になりました。畑に走った亀裂が、青柳さんの自宅へと続く―――。液状化により、地盤が動いたとみられます。青柳さんの自宅は分断された状態になり、新潟市の調査で「使用や立ち入りが危険」と判定を受けました。

住み続けることができないと考えた青柳さんは、別の地区に家を借り、引っ越すことに。結婚の時、亡くなった父からもらったタンスを引っ越し先に持っていきたいといいますが、「これは多分どこの業者頼んでも」運び出すのが難しいといいます。

息子の貴士さんと自宅の整理を行うと出てきたのは、ランドセル。しかし、「全部撤去ですね、ほとんど必要最小限のものしか…」と、ランドセルは捨てにいくことに。

青柳さんの息子・貴士さん
「言葉一言では何もいえない、思い出たくさん詰まっているんで…」
「いいことも悪いこともあった、喜んだり泣いた時もたくさんあった家なんで…。辛いですけどね。前向いて歩かなきゃいけない」

■傷ついた学校に帰ってきた笑顔

生活、そして商売にも大きな被害を出した液状化。ビジネスホテルを経営する勝島さんは、建物の修復や建て直しを目指し、経営は続けようと決断しました。

勝島猛さん
「前向きに動き始めた1か月。決断するのにかかった1か月ですね」
「私より母の方がため息から立ち上がるのが早かった」

母・テルさんの「頑張るしかないね」という声に、「頑張るしかないね。動き出したんだからやりましょう」とこたえた勝島猛さん。

いまだ先が見えない現状。それでも、支援の輪が広がっています。

ボランティアに訪れた人
「中越地震ですごく大変な思いをして、生きていけないほど私も被災したんですけれど、その時に全国から助けていただいて、何とかお手伝いしたいということで思います」
「スクワットとかをやっていて、こういうのは慣れているので。元通りに近づいてほしいな」

地震で傷ついた学校にも子どもたちの笑顔が戻ってきました。被災地は少しずつ動き出しています。

(※2024年1月28日放送 テレビ新潟「能登半島地震1か月 1.1証言を追う 検証・津波警報 その時、どう動く」を再編集しました)

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