【沖縄戦と首里城】吉嶺全一さん証言 後編
吉嶺全一さん、87歳。
子どものころから首里城の近くで暮らし、12歳のときに沖縄戦にき込まれ、九死に一生を得る。75年前、そして去年10月の2回、首里城が燃えるのを目撃した。
吉嶺さんに、沖縄戦の体験や、首里城地下の「第32軍司令部壕」を保存する動きなどについてお話を伺った。
(前編から続く)
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■米軍の猛攻…死体だらけの中で食料を
上陸した米軍が次第に南下するなか、吉嶺さんも4月下旬には首里を離れ、母親と祖母とともに南部に避難を始める。
自然の洞窟に身を潜めては、迫る米軍に追われるように転々と移動を繰り返し、5月にはのちに沖縄戦最後の激戦地となる摩文仁にたどりつく。しかしすでに周辺の壕は避難した住民で一杯だったという。
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【吉嶺全一さん】
摩文仁の丘の西側、そこに行って、やっと探したのは小さい岩陰だったんだよ。3名なんとかこうして隠れれば入れるくらい場所があったんで、ああこれは使えるなと思って、周囲の石で石垣を積んで、朝迎えに行った母と祖母と3名で行って、そこに捕虜になるまで隠れてました。ところが水も無い食料も無い、大変なところ。
私も毎日、朝と晩の2回、食料探していきました。いまは海岸に木がいっぱい生えていますよね、あれ、みんな吹っ飛ばしてなくなっていた。丸見えでした。そこで芋を掘っていると、沖から(米軍の)船がそれを見て、バンバンバンと撃ち殺しましてね。
母が5月の半ばごろから「もう芋掘りに行きたくない」と言い出したんだ。その理由は何回も死体につまずいて転んだり、滑って転んだりしたんです。
死体もそのままほったらかしでしょ。そこに爆弾がドカンドカンと落ちて吹っ飛ばしますよね。そうするとまともな死体は非常に少なかったんだ。みんなバラバラの死体。洋服なのか死体なのか分からなかったんだ。
母親は近眼だったせいもあって、洋服と間違って踏んだんでしょうね。滑って転んだわけですね。母が言うには死体とはいえ、元人間だから踏みたくないというのが理由だった。私は踏んだ覚えはないんですよね。
死体がその辺にあるのはわかっていたけどね、私の目に入ってくるのは食べ物しかなかったんだ。芋かサトウキビか。死体なんかなんとも思っていなかったんだ。
6月の20日には摩文仁の丘の上も(米軍が)全部占領して、えい光弾という弾をどんどん打ち上げて、全く外に出られなかったんだ。私たち3日くらいは飲まず食わずですよ。ずっと潜んでいて、ちょっと出ようとしたら(米軍は)撃ちましたからね。
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■投降…米兵の缶詰は「天国の味だった」
日本軍の司令官が自決し、組織的戦闘が終わったとされるのは6月23日。しかし吉嶺さんはその前日にこんな声が聞こえてきたという。
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【吉嶺全一さん】
(米軍は)スピーカーを持ってきて放送を始めたんです。「もう戦争は終わった」と。「もう殺さないからみんな出てこい」と。「食料も洋服もあります、みんなそのまま出ていらっしゃい。心配ありません。殺しません」と放送したんだ。
確かに見たら、静かで弾を撃ってこなかったんだ。「本当に撃っていないな」と思ったけど、ああいう教育をされているからね、何も信用しなかった。母も知っているけど、ずっと出ず、潜んでいた。2日間放送が続いて、3日目に今度は日本人の階級の上の軍曹だという人が自己紹介して、「自分は元陸軍の軍曹の誰それです。戦争は終わりました。だからアメリカ兵は絶対にみなさんを殺しませんから安心して出てください」と。「食料も水もある」と放送したんだ。
ところがそれを聞いた私の母は震えて怒っていたんだよ。「この兵隊ともあろうものがスパイをしよったのか」と。兵隊が「殺さないから出てくれ」というのは敵がやることですよ。
「味方の将校ともあろうものが、スパイしよったのか、出るもんか」と。ほんとにもうあのひもじさはなんとも言えないけどね、出なかったんだよ。翌日もまた同じ兵隊が「みなさん心配しないで出てください。絶対に殺しませんから出てください」と放送した。
それでも周囲を見ても誰も出ていかない。周りにバラバラの死体。それを見て私は、私たち3名以外、みんな死んだんだって思った。私の母もそう思ったらしい。
ところが3日目になってその兵隊が「みなさん、早めに出てください。もし日が暮れる前に出ない場合はそこにガゾリンをまいて焼き払います」と言うんだ。
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以前、近くにいた日本兵が焼き殺されるのを見ていた吉嶺さんらは「あんな死に方だけはごめんだ」と思って、岩陰を出たという。飢えでふらふらになりながら、坂を上がると、米兵に手を引っ張られたという。
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【吉嶺全一さん】
そこへ兵隊が水筒とコップを持ってきて私の前でついで、ちょっと飲んで「はい」って、くれましてね。そのときに飲んだ水のおいしさは、もう本当に天国の味だった。もう何にも考えないでぐぐっと飲んだら、その兵隊はうれしかったのでしょうね、小さい缶詰を持ってきて座ったんだ。
何をするのかと思っていたら、缶切りを出して開けたんだ。もうその匂いがしてね、途端に全てを忘れましたね。これをくれるのかとじぃーと見ていたら、(米兵は)ふたを開けて「はい」って、くれました。「しめた」と思って、取ろうとしたら、後から私の母が見ていて「毒が入っているぞ」と言うわけ。
「えっ」と手を引いたら、兵隊がニコッと笑って、カバンからスプーンを出して一口食べて、「はい」って、くれました。このときの缶詰のおいしさは、本当に天国の味とはあんなものでしょうね。あの時の缶詰のおいしさはなんとも言えなかった。
パパパっと、全部食べて、周囲の母や祖母が何を食べたか全然覚えていない。食べたら、今度はチョコレートを持ってくる、クラッカー持ってくる、持ってくるの全部食べて、やっと生きた心地になって、気がついたら目の前は全部死体だったんだ。その臭いもしなかったよ。生きてるのは私だけだったのかと。
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■首里城下の司令部壕を平和学習の場に
いま、首里城地下の「第32軍司令部壕」を保存しようという動きが出ていることについて考えを聞いた。
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【吉嶺全一さん】
第2次世界大戦や沖縄戦みたいな戦争は二度とやるもんじゃない。戦争が悪いんです。殺された人間が悪いんじゃない。
兵隊は民間人を守らなかったと言うけど、とんでもない。守る余裕が全く無かった。それを今戦争体験がない若い人が誤解している。私は日本兵が民間人を守らなかったとは思ってませんね
。守れなかったんだよ。そんな余裕は無かった。自分ひとり生きるのが精一杯でしたからね。
これ(首里城地下の「第32軍司令部壕」の保存)はやってほしいですね。いまは防空壕を見せるために南まで行って轟壕とか見せてますけど、首里城の下の壕というのは中までは入れるかわからないけども、やはりどういう壕だったか、首里城の下にこういう施設があったんだと見せるために、平和学習の一つとして必要だと思いますね。