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【沖縄戦と首里城】吉嶺全一さん証言 前編

2020年8月14日 20:03
【沖縄戦と首里城】吉嶺全一さん証言 前編

去年10月、火災に見舞われた沖縄の首里城。75年前の沖縄戦でも焼失し、再建まで半世紀近くかかったこともあり、去年の火災は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。

その地下に巨大な地下壕(ごう)が存在する。この壕は、沖縄戦で、アメリカ軍と対峙(たいじ)した旧日本軍の第32軍が、一時、司令部を置いた場所で、一帯は激戦で焼け野原となり首里城も焼失した。

戦後は、崩落の危険があることなどから立ち入りが禁止されていましたが、去年10月の首里城火災をきっかけに、戦争の記憶を次世代に伝える場所として壕の保存と公開を求める声がいまあがっている。

75年前、いったい何があったのか。私たちは首里城の沖縄戦を知る方々から数々の証言を伺った。戦争を知らない世代にいま伝えたい、知られざる地下壕に秘められた戦争の歴史とは。


    ◇


吉嶺全一さん、87歳。

子どものころから首里城の近くで暮らし、12歳のときに沖縄戦にき込まれ、九死に一生を得る。75年前、そして去年10月の2回、首里城が燃えるのを目撃した。

吉嶺さんの小学校は、戦前の首里城の中にあった。朝礼も正殿前の広場で行い、子どものころの遊び場も首里城だったという。そして1945年3月、沖縄戦が始まったころには、すでに食料も乏しくなり、勉強もできない状況になっていた。

吉嶺さんに、沖縄戦の体験や、首里城地下の「第32軍司令部壕」を保存する動きなどについてお話を伺った。


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【吉嶺全一さん】
私は小学校6年を終了してた時点で沖縄戦が始まった。12歳。満で11歳か。当時の生活は惨めだったんですよ。あなた方はご飯を腹いっぱい食べて当然でしょうけど、私たちは腹いっぱい食べるということはなかったんだ。

お米もちっちゃい・・・いまのシーチキンの入った缶詰缶、あれを一杯盛って3食分だったんだ。それが次第に2杯、1杯になってしまって、1杯分で1日分だった。だから腹一杯ご飯を食べるというのはなかった。

(中学校に)私も受験して入りましたけど、戦争が激しくなってきたんで入学試験やらないで内申だけで決めて入学が決まった。4月5日が入学式。やったーと思ったんだ。一流の学校だから、当時は。と思ったら4月1日が(米軍)上陸でしょ。だから入ってないんです、私。


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■「”機密”の地下壕」知り安心感も…

首里城の地下に壕が掘られ日本軍中枢の司令部が置かれていたことは、当時は軍事機密だった。近くに住む吉嶺さんはその存在を知っていたのだろうか


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【吉嶺全一さん】
これが本部壕だと言うことを言われましたから聞いて知っていました。

かえって私たちは非常に安心だと思ったんだ。というのは兵隊がよく入ってきましたからね。友達にもなって。電線はいまは電柱から通しているでしょう。

でも当時は電柱を建てる暇はないから、溝から電線を通していたんだ。で、爆弾が落ちると吹き飛ばされるでしょう?

夕方の(爆撃が)静かな時間になると(兵隊)5~6名で電線を直しに出てきましたからね。それをお手伝いをやりましたよ。そういうことをやってたので、やっぱり重要なところと思ったしね。

それに本部壕で良かったと思うのは、兵隊たちが、「おまえたちがいるところは安全な所だ」と。だから「心配する必要はない」と言われた。その通り、敵が攻めてきたのは(沖縄の)中部からでしょ。読谷から上陸して、浦添と、北から攻めてきてますよね。

そうすると艦砲射撃は西からドカンドカン飛んでくる。この村はこうなっているでしょ。北からの(射撃)は通り抜けてここにあんまり当たらなかった。

北からのはここを通り過ぎて繁多川(はんたがわ)って村にドカンドカンやってた。私たちの村にはあまり落ちてこなかった。兵隊が、「見てご覧、落ちてこないじゃないか。」と。そういう意味では、本部壕があることは良かったと思ったんだ。

兵隊たちの話ではね、そこに本部壕をつくれば連絡しやすいと。というのは戦場がみんな見えるでしょう。

首里城から、(米軍が)上陸した読谷が丸見えなんですよ。実際に当時の司令官と、高級参謀の八原博通さんの本を見ても、今の首里城の南側に物見台があるでしょ。

みんなそこに登って高みの見物をしていたらしいんだよ。丸見えだから。そういうので安全な場所だと思ってた。本部壕つくってた当時はそう思ってた。


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沖縄本島中部の読谷村に上陸した米軍は日本軍の激しい抵抗に遭うが、徐々に吉嶺さんが暮らす首里に迫っていた。


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【吉嶺全一さん】
最初はドカンドカンと艦砲射撃や空からの砲撃が激しかったんですけど、次第にバラバラバラバラと機関銃の音が聞こえてきたんだ。そうしたら兵隊が来て、「もう(米軍が)浦添城址まで来ているからおまえたち早く南に逃げろ」と言われたんだ。それが4月の半ばじゃなかったかと思う。


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■空襲…首里城から火の粉祖母は涙を

自宅から近くの壕に避難した吉嶺さんの一家。そしてある日の夕方、子どもの時から親しんでいた首里城が燃えるのを目撃する。


    ◇


【吉嶺全一さん】
おばあちゃんが最初に見たんだよ。私が隠れてる壕が当時、バンバンと(攻撃の)火が激しくて(外に)出られなかった。

ところが夕方になると静かになりました。そのときに私たちも残ってる家に食べ物を取りに行ったり洋服を取ったりして帰りました。そのときに、非常に激しい火だった。

おばあちゃんは直感したんでしょうね。お城(首里城)は大丈夫かと思ったはずなんだよ。

出て真っ先に(城の方を)見てましたから。そしたらわっと火の粉が飛んでまして、「ああ、お城が燃えてる」と。「うぐしくが、めーとーんと(お城が燃えている)」と。一生懸命、合掌してましたから

ばあちゃんはもう、涙を流して見てましたからね。というのは、首里城は沖縄の人の象徴だったんよ。


(後編へ続く)

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