【沖縄戦と首里城】與座章健さん証言 後編
與座章健さん、91歳。
沖縄県立第一中学校(現・首里高校)在学中から、陣地の構築など戦争準備に駆り出された。
首里城地下の第32軍司令部壕から土を運び出す作業にも従事。学徒兵で構成された「鉄血勤皇隊」として多くの学友を沖縄戦で失った。
與座さんに、沖縄戦の体験や、首里城地下の「第32軍司令部壕」を保存する動きなどについてお話を伺った。
(前編から続く)
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■米軍へ覚悟の投降「戦争は負けたな」
與座さんに思わぬ転機が訪れる。米軍の砲撃で備蓄の食料がやられ、口減らしのため隊員を減らすことになったとして、4月28日に除隊させられたのだ。先に避難していた家族を頼って南部の壕や岩陰を転々と避難していたが、気がつくと米軍の占領地域に入っていたという。殺されるという恐怖の中、家族が下した結論は、収容所に行くことだった。6月13日のことだったという。
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【與座章健さん】
百名集落(現・南城市)に着いてみたら、いろんな人がいた。私たちの先生が生物博物の先生だったけど、この先生が道ばたで浮浪者みたいになって道ばたで寝ていた。「ああ先生もこんなになってしまったのか」と思いながらね、道ばたに座っていた。さあ「きょうからどうすんのか」と。前の道路を米軍のM4という大きな戦車が、摩文仁の前線へゴウゴウと通って行く。「戦争はこれは負けたな」と思いましてね。涙が出てね。ずっと座っていましたよ。
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與座さんは沖縄戦を生き抜くことはできたが、鉄血勤皇隊に残った仲間は「斬り込み」と呼ばれる米軍への玉砕覚悟の抵抗など、過酷な任務をさせられ、非業の死を遂げた。
沖縄県立第一中学校では、鉄血勤皇隊と通信隊あわせて200人以上が犠牲になったが、そのうち、どこでどう亡くなったかわからない生徒が4割もいるといい、正確な動員数や犠牲者数はわからないままである。
戦後まもなく、與座さんはかつての学び舎や首里城など一面廃虚となった首里の街を目の当たりにした。
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【與座章健さん】
昭和22年ごろ戦争済んで2年くらいたった時に、首里城まで行ったことはあるけどね。全くの廃墟でしたよ。城壁はほとんどなくなっているしね。上の建物ももちろんゼロ。あちこちに砲弾の痕があって、全くの廃虚でしたね。
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いま、首里城地下の「第32軍司令部壕」の保存しようという動きが出ていることについて考えを聞いた。
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【與座章健さん】
できれば保存した方がいいね。過去の苦い経験ですから、永遠に残すべき。歴史上の産物として。こういう長い歴史の中ではこういうこともあったとちゃんと残すべきだね。
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戦争を知らない世代にいま伝えたいことは・・・
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【與座章健さん】
なぜ戦争が起こるのか。非常に大きな永久的な課題だと思う。いわゆる大東亜戦争という戦争に日本が巻き込まれてしまった。あれは一体何だったのか。もう少しはっきり究明するべきだと思うね。あまり触れようとしない、みんな。何でそういうことになったのか、はっきり究明してほしい。二度と馬鹿なことが起こらんようにしないといけない。