【対馬丸撃沈から80年】事件生存者の“語り部”は2人だけに 遺族にすら隠された“真実”…「父がいた」64年後に知った人も
学童疎開船「対馬丸」がアメリカ潜水艦の攻撃で撃沈してから、22日で80年となりました。1500人近くが犠牲となりながら、士気の低下を防ぐため、遺族にすら隠された沈没。対馬丸記念館によると、現在、語り部として活動する事件の生存者は2人だけになっているそうです。(2022年6月放送分を再編集しています)
広島市に住む北口清子さんが1歳のとき、父親の荒木徳一さんは32歳で戦死しました。父親がどこで何をしていたか、清子さんも家族も全くわかっていませんでした。
清子さん
「父のことは全く知らないですね。沖縄方面で亡くなったっていうだけ」
死亡報告書でわかっていたのは、「陸軍」ということと、8月22日に沖縄方面で亡くなったということだけでした。
数枚の写真しか残っていない父親について清子さんは、「いないのが普通だったから。自分の父親っていうことを考えたことがなかったんですね」と話しました。
しかし、父の死から64年。思いがけず、その真相を知ることになったのです。
清子さんは65歳のとき、遺族会で偶然、沖縄の対馬丸記念館を訪れました。
沖縄戦が迫る1944年8月、疎開する子どもなど1788人を乗せて那覇から長崎に向かっていた「対馬丸」。アメリカ軍の潜水艦から魚雷攻撃を受け、沈没しました。清子さんは展示を見て、対馬丸の沈没と父親の命日が、同じ“8月22日”と気づきます。
清子さん
「対馬丸記念館に入ったら、対馬丸の模型が置いてあったのですね。そこに8月22日撃沈と書いてあって『あれ、うちの父と同じ命日だね』と思ったのですね」
「同じだなと思った瞬間に母が涙ながらに『父の名前がある!』って言うんで『えー! 対馬丸で亡くなっていたんだ』という感じで」
父・荒木徳一さんが、船を守るための船舶砲兵として乗船し、亡くなっていたことが初めてわかったのです。
対馬丸の犠牲者は、1000人以上の子どもを含む1484人。清子さんの父親もそのうちの1人でした。
清子さん
「父への思いがね、一度にあふれ出したような感じでしたね」
「母と2人でね、ずっと泣いていたんですけどね。父がどんな思いをしたんだろうと思って」
あの日、何があったのか──。それを知る人が、沖縄にいました。当時10歳で対馬丸に乗っていた、上原清さんは2022年、沈没するときの様子を、鮮明に語ってくれました。
上原さん
「眠っているときに“ガーン!”と1発目は揺れ起こされた」
「鈍い音だったな。“ゴーン!ゴーン!”と。『これはやられたな、魚雷だな』と」
わずか10分ほどで沈没した対馬丸。上原さんは沈みゆく船から、海に飛び込みました。気づいたときには、もう対馬丸は沈んでいたといいます。
上原さん
「船が沈むときには、そこに渦ができて、近くにいたら船と一緒に沈んでいく。一生懸命泳いでいって、離れて、後ろを向いたらもう沈んでいた」
沈没から生き延びたものの、上原さんは、食べ物も飲み物もない中、照り付ける真夏の日差しの中を6日間もイカダで漂流しました。
そして、150キロ流され、たどり着いたのは鹿児島県の奄美大島でした。このあたりには、生存者21人を上回る、100人以上の遺体も流れ着きました。1か所に集められた生存者のもとには、日本軍の憲兵隊がやって来ました。
上原さん
「(憲兵は)『日本は絶対に負けない!』と。そういう(対馬丸が撃沈された)ことがあるということは極秘であるわけさ。(憲兵が)『対馬丸が沈んだということを絶対に言うな!』と」
戦意が低下することを恐れた日本軍。厳しいかん口令を敷き、家族にすら沈没の事実を隠したのです。
当時、上原さんは何も語ることができませんでした。ただ、沈没から数時間後、子どもたちと箱舟で漂流する砲兵の姿を見ていました。清子さんの父親と同じ部隊です。
上原さん
「兵隊は時計を見て『あと2~3時間で夜が明けるからね。夜が明けたら助けに来るし頑張ろうね』と(子どもたちを励ましていた)」
2019年、清子さんは上原さんの講演会で初めて、子どもたちを励ました砲兵のことを知りました。
清子さん
「上原さんが、『みんなを励ました人が、ひょっとしたら清子さんのお父さんだったかもわからない』って言ってくれて」
「握手したときに、なんかこう父親とね、握手しているような感じがしましたね」
広島には、船舶砲兵部隊の慰霊碑があります。2022年6月、清子さんは、この碑に花を供えていました。
国のために隠された対馬丸の沈没──。父の死の真相を知り、清子さんは「母や私たちのことを思いながらも、沖縄の子どもたちのことも、一生懸命守らなくちゃという気持ちが強かったんじゃないかと思うんですね。戦争は本当に残酷です」と涙をぬぐいました。
【取材した日本テレビ元社会部・久野村有加記者 対馬丸事件80年に思うこと】
取材でお話を伺った上原清さんは、その後ランニング中に転倒する不慮の事故で、残念ながら語り部をすることはできなくなりました。いま対馬丸記念館で把握する限り、いまも語り部として活動する事件の生存者は2人だけになっているそうです。一方で、対馬丸事件の資料を保存する那覇市の「対馬丸記念館」には事件から80年が経つ今でも、遺族から新たな遺影などの提供があるそうで、語り部が少なくなっていく中で、記念館の役割はますます重要となっています。