昭和天皇“お手植え復活”のドラマ(下)
昭和天皇が戦後初めて「お手植え」をしたのは1947(昭和22)年11月、戦後の全国巡幸で訪ねた富山県でのことでした。戦後、富山県を3度訪ねましたが、その度にお召列車からお手植えの杉の成長をながめ、車窓越しに笹津の人たちと交流を重ねてきました。植樹から74年。旧細入村の人たちの手でその杉は大切に守られています。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男)
【皇室コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第9回<昭和天皇“お手植え復活”のドラマ(下)>
■お召列車から3度見たお手植え杉
1947(昭和22)年11月2日。前日に旧・細入村笹津地区で杉苗3本を植えた昭和天皇は、北陸3県の訪問を終え、富山駅から高山本線で岐阜県へ向かいました。杉苗を植えた笹津の現地を通ることに昭和天皇は興味を持ち、侍従たちも楽しみにしていたそうです。「よく見えた。きのうお植えになった三本の杉苗は、朝の日をゆたかにあびてしゃんとしていた」(入江相政『天皇さまの還暦』)。一行が見逃すまいと目を凝らし、その瞬間に感嘆の声を上げたことが想像される逸話です。
次の訪問は1958(昭和33)年10月、富山国体の時で、香淳皇后が一緒でした。この時も帰りに高山本線で岐阜県に向かいました。昭和天皇は東京を発つ前、入江侍従から事前調査の時に汽車の窓越しに木の柵に囲まれたお手植え杉が見えたと聞き、大変喜んでいたそうです。
「大勢の人の姿。大きな日の丸を持った人。柵には、なんと紅白の布を巻いて。これなら、なにも私がお知らせしなくたって一目瞭然。あのとき杉苗を植えていただいてよかったとつくづく思った」(『天皇さまの還暦』)。その場所を知らせようと入江侍従は気をもんでいたのです。
この時の様子は、北日本新聞が、紅白の幕を張り巡らした杉の前で200人が見送っている写真を大きく載せ、「村長らは成長ぶりをみていただこうと侍従を通じてお願いし、天皇さまは快くご承知、お約束をまもられた」と伝えています。
3度目は1969(昭和44)年5月、全国植樹祭の訪問でした。5月29日、笹津に近い施設を訪ねた昭和天皇と香淳皇后は、笹津駅からお召列車に乗って高山本線で名古屋へ向かいました。その時の様子は、お手植え杉を背にして見送る人たちと、列車の窓際に立って応えるお二人を捉えた写真を富山新聞が1面に大きく載せ、「なつかしげにお手植え杉ご覧」と伝えています。
ちょうど11年おきに昭和天皇がお召列車から杉の木の成長をながめ、集落の人たちと触れ合ってきたことを考えると、最高の場所だったのではないかと思われます。そこはしかし、東向きで、前に山があって日の出が遅く、日照時間の短い場所でした。
6月下旬に現地を訪ねると、「御手植え杉を守る会」の世話役が案内してくれました。合併によって世話が行き届かなくなり、2015(平成27)年に地元の有志で会を作り、月に一度のペースで下草刈りなどの手入れを行っています。
世話役は、活動の様子や、杉の下の道を通る際には一礼するように躾(しつけ)られたことなどを語ると、「実は」と声を湿らせ、かなり前に3本のうちの1本が枯れ、植え直していることを明かしました。確かに向かって左端の一本は成長が遅いようです。今も「枯らした」という非難めいた声があるという話に、「お許しになっているのでは」とつぶやくと、世話役は安堵したような表情を見せました。
ちなみに、北日本新聞の1969(昭和44)年5月30日の朝刊には、お手植え杉の前でお召列車を見送る村人たちの写真が掲載され、「お手植えになった二本のタテヤマスギの前で」というキャプションが付いています。それ以前に1本が枯れていたから「二本」としたと推測され、そうだとすれば侍従は通過の前にお耳に入れ、昭和天皇も諒解していたに違いないと思われます。
■昭和9年に始まった「愛林日」植樹行事
全国的な緑化運動は、1934(昭和9)年、「愛林日」の名で行われた茨城県の筑波山麓での植樹行事が始まりで、戦時末期まで愛林日記念植樹として行われました。
復活したのは1947(昭和22)年4月。東京の高尾で植樹行事が行われ、学習院中等科の上皇さまが出席してヒノキを植樹されています。昭和天皇がお手植えを解禁する半年前のことでした。翌1948(昭和23)年には東京の青梅で、翌々年の1949年(昭和24)年には神奈川の箱根で開催され、昭和天皇が香淳皇后と出席してヒノキを植えています。お手植えは富山から広がっていきました。
1950(昭和25)年4月、第1回の「植樹行事並びに国土緑化大会」が山梨県で開かれました。昭和天皇は香淳皇后と出席してヒノキを植えました。「緑の羽根募金」でなじみのある緑化運動の始まりです。この大会が1970(昭和45)年の第21回から「全国植樹祭」に名前を変え、今年5月末に天皇皇后両陛下がリモートで参加された島根県の植樹祭に至ります。
■戦争中は個人宅の巨木まで供出させられた
最近、『戦争が巨木を伐った~太平洋戦争と供木運動・木造船』(瀬田勝哉、平凡社)という本に出合い、戦局の悪化で木造船を緊急増産するために「軍需造船供木運動」が始まり、平地の巨木が次々と伐られたことを知りました。山の森林だけでなく、平地の個人宅の巨木もです。銅像や鍋などの金属の供出は承知していましたが、木までとは驚きです。
戦争が終わっても、復興のためにさらに木は伐られます。杜甫の「国破れて山河在り」どころか「国破れて緑なし」という状態だったのです。
戦後の台風は大きな被害をもたらしました。中でも1947(昭和22)年9月、関東地方などを襲った台風の死者・行方不明は2000人に上りました。カスリーン台風です。はげ山で斜面崩壊や土石流が相次ぎ、被害を大きくしました。この時、昭和天皇は埼玉や東京の災害現場を訪ね、ズボンを濡らしながら被災者を見舞っています。「治水のための植樹」を富山で強く求めたのは一か月ほど後のことです。被災地を回って痛感した切実な願いが、植林、造林だったのでしょう。
全国植樹祭は71回を数えます。戦争の記憶が薄れていくなかで、緑化の大切さだけではなく、戦争で巨木が伐られた悲しい歴史や、お手植え復活のドラマも次世代に伝えていってほしいと思います。
※引用は現代仮名遣いと日常使いの漢字に改めました。
(終)
(冒頭の動画は、「『植樹行事並びに国土緑化大会』(全国植樹祭の旧名称)に臨む昭和天皇」<1956(昭和31)年4月 山口・防府市>)
【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)
日本テレビ客員解説委員。元読売新聞編集委員。皇室ジャーナリスト。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。