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昭和天皇“お手植え復活”のドラマ(上)

2021年7月3日 10:41
昭和天皇“お手植え復活”のドラマ(上)

全国植樹祭の中心行事は天皇皇后両陛下による植樹です。コロナ禍で1年延期された今年の植樹祭はリモートで行われましたが、昭和天皇は長く植樹をしませんでした。枯れた時に管理者の責任が問われるからです。禁を解いたのは1947(昭和22)年。戦後の全国巡幸で訪ねた富山県でした。恒例となった植樹はこの時に始まり、そこにドラマがありました。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男) 

【皇室コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第9回<昭和天皇“お手植え復活”のドラマ(上)>


■戦後巡幸で訪ねた富山でお手植えを解禁

JR富山駅から高山本線の各駅停車に揺られて岐阜方面へ35分ほど。7つ目の笹津(ささづ)駅を過ぎ、気動車が大きなうなりを上げて山裾へ入っていくと、右手の斜面に白い柵に囲まれた3本の杉が見えてきました。「昭和天皇お手植えの杉」。標柱の黒い文字から特別な木であることがわかります。

「平成の大合併」で富山市となった旧・細入村の笹津地区。新型コロナウィルス対策の「緊急事態宣言」が解除された6月下旬、日帰りで現地を訪ねました。目の前に景勝地の神通峡(じんずうきょう)を望む線路脇の斜面に、高さ20メートルほどの立山杉3本がしっかりと根付いていました。 

昭和天皇がここに杉の苗を植えたのは1947(昭和22)年11月1日。戦災に遭った人たちを励ます全国巡幸で富山県を訪ねた時です。午前11時前、山間部の遅い朝日を浴びながら昭和天皇は車から降り、高山線の線路を越えて急な坂道を登っていきます。自ら鍬(くわ)を取り、はげ山の裾に杉の苗3本を植えて土をかけました。

植樹を終え、昭和天皇は介助してくれた山林所有者の前澤善作さんに声をかけます。「どうか今後も植林をしてください」。前澤さんは「はい。身命を捧げて植林に努め、思し召しに副(そ)い奉りたいと存じます」と感極まって答えました。滞在わずか7分。戦後初めて行われた昭和天皇のお手植えです。それは前夜、視察先から視察先へ移動する道筋に急きょ追加された日程でした。

きっかけとなる出来事が6日前の福井県でありました。染色工場を訪ねた昭和天皇は、鉢植えの松に水をやってほしいと求められ、手杓で3度水を注ぎます。これを「異様」に感じた側近がいました。大金益次郎・侍従長です。著書『巡幸餘芳(よほう)』(新小説社)によると、お手植えが許されなかった「窮余の策」と聞き、「いじらしい」と思う一方で、お手植えについて再検討する必要を感じました。

■「迷惑になる」とお手植えを控えていた昭和天皇

天皇のお手植えは、昭和の初頭から「不許可」でした。枯れたりすると、知事が顛末書を出して詫び、失脚させようとするいたずらも稀ではなかったからです。「地方の迷惑になるようなものなら、許さぬ方がよい」。大金侍従長は『巡幸餘芳』の中で理由を明らかにしています。

この巡幸に同行した入江相政・侍従(のち侍従長)も著書『天皇さまの還暦』(朝日新聞社)で触れています。枯れたりすると管理者はたちまち責任を追及されて辞職させられることになり、「陛下はこれをお悲しみになって、人を苦しめるために植えているようなことになるから、と一切のお手植えをやめておしまいになった」

大金侍従長は考えます。時代は変わり、陛下は山林の荒廃を心配して植林を奨励しているのだから、「親しく鋤(すき)を取って植林なされたならば、その効果はお言葉の幾百倍なるやを知らない。この際従来の方針を一擲(いってき)すべきではなかろうか」と。「一擲」は投げうつという意味です。

富山県2日目の10月31日。城端(じょうはな)という駅で木炭の集出荷事情について話を聞いた昭和天皇の質問に皆が驚きます。昭和天皇は「木炭のために伐採した跡地に植林をしていますか」と尋ね、急峻な山が多いため大部分に植林はしていないという答えに「植林しないでも雑木は生えてきますか」と畳みかけ、「治水のこともあるから、なるべく植林するようにして下さいね」と求めたのです。

大金侍従長は館哲二・知事にお手植えについて相談をしていました。知事は昭和天皇の質問に植林への強い思いを感じ、その日の昼食時に行動を起こします。『富山県行幸記録』によると、「県民の植林意欲向上のため植樹をしていただければ」とお願いしたのです。「それじゃ、ここで植えていこうか」。昭和天皇の快諾の言葉は、入江侍従長が対談で語っています(昭和聖徳記念財団の会報『昭和』)。

■夜を徹し、集落総出で切り開いた道

視察は残り1日です。『細入村史』によると、細入村に駐在する地方事務所の木炭検査員が県の林務課長から電報で呼び出され、候補地の選定が行われました。条件は、道路に近く、勾配が緩やかで、線路を横断しないこと。一帯は道路の右手が神通川の峡谷、植樹できる山は道路の左手を走る高山本線の向こう側です。3つ目はあきらめ、道筋にある県林業功労者の前澤さんの山が選ばれました。

集落は大騒ぎです。すでに夜。臨時総会が招集され、老若男女50人が総出で植樹場所に通じる坂道を切り開くことが決まります。夜を徹して草刈りや地ならし作業が行われ、朝早く女性たちが神通川から取ってきた砂が坂道にまかれました。苗木選びも念入りに行われ、3年生の杉1000本から緑色の濃い3本が選ばれました。

「度々水害を被る富山県に対し造林御奨励の思召しをもって、スギ苗三株をお手植えになる」。『昭和天皇実録』にある表向きの理由は理由として、大金侍従長は高らかに書いています。「お手植えに関しては、福井に端を発して、宮内府の方針に一転機を画した」(『巡幸餘芳』)。高揚感が伝わってきます。 

※引用は、現代仮名遣いと日常使いの漢字に改めました。
(「下」に続く)

(冒頭の動画は、「全国植樹祭にリモートで参加された天皇皇后両陛下」<5月30日>)


【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)
日本テレビ客員解説委員。元読売新聞編集委員。皇室ジャーナリスト。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。