事故で失った片腕と指 身体障害者野球で掴んだ“世界一”「こんなかっこいい親父はいない」
“もうひとつのWBC”と呼ばれる「身体障害者野球の世界大会」で、見事優勝を果たした日本代表。数々の“スーパープレー”で日本を世界一へと導いた選手のなかには、名古屋を本拠地に活躍している選手も。体の不自由さと葛藤、苦労の先で見つけた、野球の“本当の魅力”とは。
中学生から80歳まで在籍!身体障害者野球チーム「名古屋ビクトリー」
名古屋を本拠地に活躍する、身体障害者野球チーム「名古屋ビクトリー」。下半身に障がいのある選手や、片腕のみでプレーする選手など、さまざまな障がいのある選手が在籍している。
年齢層は下は中学1年生、上はなんと80歳まで!企業勤めから自営業まで職種もさまざま、“野球が好きな人たち”が分け隔てなく集まったチームだ。
しかも、「名古屋ビクトリー」は16のチームが参加する全国大会で優勝するほどの強豪チーム。さらには、先月バンテリンドームナゴヤで5年ぶりに開催された、「身体障害者野球の世界大会」で優勝した日本代表チームの選手も在籍しているのだ。
身体障害者野球では、障がいの度合いに合わせてルールを変更。障がいにより走りにくい人のために、打者が打つと同時に別の選手が走り出す「打者代走」というルールが起用されるなど、どんな障がいを抱えている人でも参加しやすい魅力があるのだ。
片腕と指3本で取り戻した大好きな野球
「名古屋ビクトリー」所属・松元剛さんは、「身体障害者野球の世界大会」にて日本代表のキャプテンを務めた選手。
26歳の時に、電気工事の仕事中に事故に遭い、左腕と右手の指2本を失った。テレビで身体障害者野球を知り、大好きな野球に再び復帰。「曲がりなりにも日の丸を背負う。モチベーションが違いますね」と日本代表として選出された喜びを振り返った。
力よりも技術、自分ならではの体の使い方が上達のコツとなる身体障害者野球。片腕で行う松元さんの守備も、唯一無二のランニングスローから成り立つ。捕球した瞬間、ボールを真上に少し投げ、その間にグローブを外して、素手でボールをキャッチ。足のステップはそのままに、なめらかな動きでキャッチしたボールを投球する。まさに神業並のスーパープレーだ。
さらに、バッティングにも高い技術力が宿る。片腕の指が3本のため、より力と技術が必要となるが、バットはボールを捉え、見事センター前にヒット!独自のプレースタイルで野球を楽しむ松元さんだが、自分が納得するものを習得するまで、野球復帰から3~4年かかったという。続けて、「(バッティングは)当てるのが精一杯という時期が長かった。バッティングはずっと悩んでいくのではないかと思う」と語った。
義足の軸足で繰り出す“世界一”のピッチング
松元さんと同じく「名古屋ビクトリー」に所属し、世界大会の日本代表としてプレーした藤川泰行さん。大会ではピッチャーを務め、優秀選手賞を獲得するほどの活躍をみせたスター選手だ。左足の膝下が義足の藤川さん。20歳の時に遭ったバイク事故が原因だったという。投球フォームについて、「軸足が義足だったので、片足で立つことが難しかった」とピッチャーならではの苦労も経験してきた。
現在の投球フォームを確立し始めたのは、身体障害者野球を始めて2年を過ぎたあたりから。さまざまな試行錯誤を重ね、苦労の末に生み出した自分だけの投球フォーム。マウンドからキャッチャーミットに向かって真っ直ぐ投げ込まれる球は、健常者の野球経験者でも空振りしてしまうほどの速さを誇り、チームを“世界一”に導くほどの唯一無二の武器へと成長した。
子が憧れる父の姿「こんなにかっこいい親父はいない」
松元さんの子供たちに、野球に取り組む父の姿について聞いてみた。娘の一華さんは、「世界大会の時、キャプテンとしてチームを引っ張っている姿がかっこいいなと思った」と大きな声でチームを鼓舞し続けた松元さんの姿に、父親の新しい一面を発見していた。
大好きな野球のおかげで、人生が色づいたという松元さん。「楽しい環境、嬉しい環境があって、活気のある人生を送ることができて幸せ。家族が“こんな親父おらんね”って言ってくれたことも嬉しかった」と家族からの嬉しい言葉も教えてくれた。妻・真弓さんもそんな夫の様子に、「大好きな野球が始められて、生活もいきいきしていた」と嬉しそうな笑顔を見せた。
自身の経験を通じて、「諦める理由はどこにもないと思う。やりたいことをやる、仕事もしっかりやる、そうすることで生活は充実していくと思う」と、“大切なもの”との向き合い方について松元さんは語る。
野球のみならず、今までやってきたことを、別の方法で1からやり直すことはとても大変だ。身体障害者野球には、その苦労を楽しみながら乗り越えようとするポジティブなマインドが溢れていた。何事も強い意志のある先に、人生を変える新しい道が拓けるのだ。