「人を殺す爆弾だとは思わなかった」福島県いわき市から放たれた絵空事のような兵器「風船爆弾」
太平洋戦争の末期、女学生らが作っていた「ある兵器」についてお伝えします。「風船爆弾」と呼ばれたその兵器は福島県いわき市勿来町から遠く離れたアメリカへ放たれていました。
「ある日突然、奇妙なものがあがってきたんですよね。数はどんどん上がるから数えきれないね」
いわき市勿来町で生まれた武子トキ子さん(88)。いまから80年前、当時小学4年生だった武子さんは家の庭から空に浮かぶ不思議なものを見ました。
「すーっと上がっていってあとはどこに消えるのか分かりません。そして次から次へと出てくるんです。なに上げてんだっぺあれね、なんて言ってたくらいです」
それは太平洋戦争の末期、いわき市勿来町から放たれた恐ろしい兵器でした。
その兵器の名前は「風船爆弾」。アメリカを攻撃するために日本軍が開発したもので、無人の気球に爆弾が搭載されています。その風船爆弾について、いわき市勿来関文学歴史館の学芸員・渡邊千香さんが説明してくれました。
「和紙とこんにゃくで作ったのりで作られています。直径が10メートルほどありまして、全国の女学生が動員され製作されていました」
当時、作業を強いられたのは全国の女学生や若い女性たち。600枚を超える和紙を1枚1枚貼り合わせて作られました。その作業は過酷で、女学生らは指紋も擦り切れ、手に血がにじむほどだったと言います。
1944年の11月から半年ほどで日本から放った風船爆弾の数は9300個。そのうちの約1000個が50時間ほどかけてアメリカ本土まで到達し、ピクニックをしていた女性と子どもたち5人が犠牲になったと言われています。
いわき市在住の写真家・竹内公太さん(41)は「風船爆弾の実際の被害を明らかにしたい」と現地の人と協力しながら風船爆弾が落ちたと思われる場所を記録に残しています。
「風船爆弾と聞いても、一聴すると作りごとのような、のどかなイメージもあって、それが兵器であると言われてもにわかに信じがたいような印象があるのですが、亡くなった数ではなくて、1人1人の経験、その人にとっては1つの命なので、そうしたことを考えさせられた」
アメリカの国立公文書館に保管されている記録には風船爆弾によって亡くなった当時の状況が詳しく書かれています。
『ミッチェル夫人と子どもたちが森の中で何かを見ているのが見えた。
ものすごい爆発音がした。
何かが空中を飛び交い、松の葉が落ち始め、枯れ枝やほこりが舞い上がった』
日本から放たれた「風船爆弾」が奪った尊い命。あの日、風船爆弾と知らずにそれを見ていた、いわき市勿来町の武子トキ子さん(88)は、大切な家族を戦争で奪われました。
「綺麗なものが上がっているなくらいの感覚で見てましたね。人を殺す、恐るべき爆弾だとは思わなかった」
兄の赤津茂さんは当時18歳で特攻隊に志願し、そのまま帰ってくることはありませんでした。
「あんな思いはしないほうがいいですね。戦争は絶対やってはいけない」
だれの、どの命も、かけがえのない大切な命です。被害の大きさだけではなく、戦争によって奪われた1人1人に目を向け、戦争の残酷さを後世に伝えていくことが必要です。