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【特集】原爆投下前の日常を鮮明に 「明るい色は、平和な色」 記憶をたどり写真のカラー化に取り組む記者が報告

2024年7月22日 11:13
【特集】原爆投下前の日常を鮮明に 「明るい色は、平和な色」 記憶をたどり写真のカラー化に取り組む記者が報告

広島は、まもなく被爆から79年を迎えます。被爆前の広島の日常を写した写真のカラー化に取り組む広島テレビの庭田杏珠記者が、今回、ある被爆者の女性の写真をカラー化しました。写真には、被爆前の大切な人との思い出が詰まっていました。

私は、高校時代からAI技術や当時の資料、戦争体験者と対話する中でよみがえる「記憶の色」をもとに、手作業で色補正をするという取り組みを続けてきました。

原爆によって日常が一瞬にして失われたことを、自分ごととして想像してもらいたいと取り組んできています。

こちらの写真は、被爆前の広島の日常を撮影したものです。

カラー化すると、このようになります。

1通の手紙に込められた思い

3月、7年前から高齢者施設で暮らしている阿部静子さんから手紙が届きました。

■阿部静子さん(手紙)
「十八才で被爆して今日に至っています。97才になりました。大揺れに揺れて生きています。私にご面会下さいませんでしょうか。」

■阿部静子さん
「原爆のことをあなたが思っておられるいうことがわかったからね。これ、私が願っている方だと思ってお手紙差し上げたんです。」

写真のカラー化の取り組みを、新聞で知ったことがきっかけだったそうです。

語られた被爆後の壮絶な人生…

聞かせてくれたのは、静子さんが被爆後に送った壮絶な人生についてでした。1927年、7人兄弟の末っ子として生まれました。女学校のときには、クラス会長も務めました。

1944年、洋裁学校に通っていたとき、縁談がありました。相手は軍の将校だった三郎さん。出兵先の満州から一時帰国していました。

■阿部静子さん
「憧れの相手の方に嫁がせてもらういうことになって、少しは浮かれとった気がしますよ。」

17歳で結婚。その後、三郎さんは再び戦地へ。新婚生活は、わずか1週間でした。

そして、その翌年。静子さんは爆心地から1.5キロの場所で建物疎開の作業をしていたときに被爆しました。

■阿部静子さん
「ぴかっと光った光で焼けて、ドーンといった爆風でちぎれたんだと思います。この爪のところでとまって垂れ下がっておりました。皮膚がむけて垂れ下がって、真っ赤になっておりました。」

娘を探していた父親と再会したのは3日後でした。

■阿部静子さん
「(父親が)『あんたが静子か。あんたが静子か。』3回も4回も確かめて。」

当時18歳。原爆の痛みに泣き暮らす日々でした。

その年の12月、夫の三郎さんが帰還します。

■阿部静子さん
「父が『普通の娘を迎えていただいたんだけど、留守中に原爆に遭って、このような見苦しい娘になりました。どうぞ、今日ここで離婚してやってください』と、父が手をついて夫に頼みました。」

その時、三郎さんは…

■阿部静子さん
「『自分が戦地で手や足を失っても、元気で帰ったら私に面倒をみてもらおうと、それを心の支えとして戦ってきて、内地が戦場になって妻が傷ついたといっても離婚はできません』と、きっぱりその時に父に申しました。」

記憶をたどって、よみがえる色

今回、カラー化するのは、夫婦にとって大切な一枚です。人工知能・AIで付けた色を当時の資料をもとに修正していきます。

■阿部静子さん
「山の枯葉に近いような色で、カーキ色とか国防色とか言ってました。」

対話する中でよみがえる「記憶の色」を再現します。

7月、完成した写真を静子さんのもとへ。

■阿部静子さん
「わあ、良い写真になってますね。まだ火傷もしてないし、運命の分かれ道みたいな写真ですね。穏やかな平和な感じが漂ってまいります。明るい色は、平和な色です。」

カラー化写真を見た静子さんは「今だけではなくて、この時から幸せが続いていたんだ」と話していました。辛く悲惨な記憶を伝えることももちろん大事ですが、カラー化の取り組みでは、戦争体験者の方に、被爆前の日常を思い出して喜んでいただくこと、戦争を体験していない世代にその日常が失われることを想像してもらうことを大切にしています。引き続き取り組んでいきたいと思います。

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