【戦後80年】戦時中は小学校が臨時病院に 焼失した学び舎の記憶
戦後80年の今年、日本テレビ系列各局では、「いまを、戦前にさせない」をテーマに特集をお伝えしています。太平洋戦争末期、射水市にあった旧小杉小学校は陸軍の患者を受け入れる病院として使われていましたが、火事で焼失しました。この学校に通っていた男性が戦争の時代に失われた学び舎の記憶から平和への思いを語りました。吉田記者のリポートです。
♪体操「1、2、3、4、5、6、7、8…」
射水市に住む本江譲さん。
年齢は88歳、戦時下を生きたひとりです。
本江さん「焼夷弾をバーっと落として、ものの1分も2分も経たんうちに下から炎が上がって。呉羽山をこえた向こう側をここで見ていた記憶はあるね」
本江さんには、年齢を重ねても決して忘れられない戦争の記憶があります。
富山大空襲の影響で小学校が臨時病院に
今から80年前、本江さんが通っていた射水市の小杉国民学校。
思い出の詰まった学び舎ですが、当時は太平洋戦争の真っ只中。
校庭は畑へと姿を変え、児童たちは慣れない農作業に汗を流すなど、学校教育も戦争の影響を大きく受けていました。
そんな中、1945年8月2日未明、アメリカ軍の爆撃機が富山市中心部を襲った富山大空襲がありました。
市街地の99.5パーセントが焼失し、およそ3000人が命を奪われました。
富山市五福にあった陸軍部隊や病院も被害を受け、およそ10キロ離れた旧小杉小学校は臨時の病院となりました。
小杉小学校の百年史には当時の様子がこう記されています。
「富山陸軍病院ノ患者輸送サレ来タル。救護本部ヲ本校二設置サル」
「本校職員出動シ諸事務二当リ多忙ヲ極ム」
焼けた小学校「今もはっきりと記憶」
そして広島に原子爆弾が投下された8月6日。
その日の午後のことでした。
本江さん 「今もはっきりと記憶にあるのは、戦災に遭った兵隊さんの、血に染まった包帯などを窯で消毒していた。そのために煙突が過熱してバーっと校舎が燃えてしまった」
包帯や軍服などの煮沸消毒を行っていた家事室から出火。
乾燥した空気が拍車をかけ、校舎は一気に炎に包まれ焼失しました。
吉田記者「学校があったのはどのあたりなんですか?」
本江さん「校舎があったのは、あそこの車が止まっている(駐車場の)あたりやね」
かつて小杉小学校が建っていた場所は、現在はコミュニティセンターの駐車場になっています。
鳥居が当時のまま残っていますが、校舎の面影はありません。
本江さん「小学校の跡地だということは、今の子どもたちは知らんやろうね。話には聞いても、実感もわからんやろうと思うし」
「まあ…戦争の後遺症、やわ」
「戦争は悲惨。あんな愚かなものない」
学び舎が焼け落ちる光景は、80年が経った今も脳裏に刻まれています。
本江さん「戦争というのは悲惨なもの。そういう記憶は取れんやろう一生涯。当時の大人の考え方と子どもの考え方は全然離れたものだけど、兵隊さんに頑張れ頑張れという気持ち、大人から受け継いで思っていただけで、今思ってみればあんな愚かなものはない。ばかなものはない」
大切な思い出も一瞬にして奪い去る戦争を二度と繰り返してはいけない。
今を戦前にさせないため、本江さんが伝えたい戦争の教訓です。