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「寒いのと食料が無いのが一番ひどかった」106歳の抑留経験者 平和への願い 南砺市

2024年8月28日 19:17
「寒いのと食料が無いのが一番ひどかった」106歳の抑留経験者 平和への願い 南砺市

太平洋戦争末期の1945年8月9日に旧ソ連が参戦し、戦後、旧満州などにいた軍人らを抑留し、多くの人が亡くなりました。

極寒の地で過酷な労働と飢えに苦しんだ、県内の106歳の男性の思いです。

南砺市井波に住む山田秀三さん、106歳です。

1941年、23歳の時に招集されて旧満州へ。

「早く日本に帰りたい」…そう考えていましたが戦後、旧ソ連軍によって強制連行されました。

山田秀三さん(106)
「帰れるかなあと思っていたらとんでもない、貨車に乗せられて。3名逃亡した者がいた、若いもんが、お前ら逃げたらこれから死刑に負わせるといって3人並ばせて殺された。3名逃げたもんだから、わしらの貨車は全部、外からカギがかけられた」

太平洋戦争の終戦時、旧満州などにいた軍人らは旧ソ連軍によって鉄道の貨車に乗せられ強制連行されました。

そしてシベリアなど極寒の地に抑留され重労働を強いられました。

山田さんはモンゴルに抑留され、冬には氷点下40度まで下がるレンガ工場で、終戦後2年半にわたって強制労働させられました。

山田秀三さん(106)
「何と言っても土が、全部凍っている、全然ダメや。レンガ工場でレンガを作らされた。2年何か月間、風呂には入ってません」

富山に戻ったのは1948年。その60年後の2008年、再びモンゴルを訪れ、働かされた野菜の貯蔵庫などを回りました。

過酷な強制労働と飢えに苦しんだ、忘れることのできない場所です。

山田秀三さん(106)
「寒いだけで…寒いがと食料が無いのが一番ひどかったということ」

厚生労働省は、日本人57万5000人が抑留され、このうち5万5000人が死亡したと公表しています。

帰国を夢見ながら死亡した人たちが数多くいました。

「南無阿弥陀仏…」

山田さんは全国強制抑留者協会の会長を務めていて、毎日仏壇に向かい手を合わせています。

世界では戦争がいつまで続くのか。ウクライナなど戦地の現状に心を痛めています。

山田秀三さん(106)
「戦車つくって、ねえ、人を殺すとか、壊すとか、いうことをやっている」

山田さんは武器をつくるから戦争になる、武器をつくらなければ戦争にならないと話します。

山田秀三さん(106)
「自分さえよければいいということではなくて、平和に暮らすこと、考えなならん」

山田さんは106歳です。

抑留を経験した人は高齢になっていて、当時の実態を語り継ぐことはだんだん難しくなってきています。

9月11日には高岡市で、抑留による犠牲者の慰霊祭が行われます。

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