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“普賢岳のホームドクター”と呼ばれた学者 太田一也さん(90) 死去 観測や研究で中心的役割《長崎》

2025年1月16日 21:10
“普賢岳のホームドクター”と呼ばれた学者 太田一也さん(90) 死去 観測や研究で中心的役割《長崎》

雲仙普賢岳の噴火災害で、観測や研究の中心的な役割を果たした火山の専門家 太田 一也さんが15日、入院先の病院で亡くなりました。90歳でした。

火山と向き合い住民から “山のホームドクター” と呼ばれた太田さん。
訴え続けてきたことは。

16日。頂上にうっすらと雪が積もった雲仙普賢岳。

(雲仙岳災害記念館 杉本伸一 館長)
「ここで43人が犠牲になった。きのう太田先生も亡くなった。黙とう」

当時の報道陣の取材拠点で、災害遺構として整備された「定点」では、黙とうが捧げられました。

1991年6月3日、43人の犠牲者を出した大火砕流。

その、発生2日前に注意を呼び掛けたのが…。


(九州大学島原地震火山観測所 太田一也所長(当時))
「ただ言えることは、今まで規制された区域に報道機関も含めて防災担当者も入っている。それは絶対避けてほしい」

火山の専門家として、雲仙の山々を長年研究してきた太田 一也さんでした。

1990年11月、198年ぶりに噴火活動を再開した雲仙普賢岳。

太田さんは当時、九州大学島原地震火山観測所の所長として観測の “最前線” にいました。

刻一刻と変化する山の状況を把握し、記録。

自治体に助言し、報道機関を通して住民にも直接現状を伝えた姿は “普賢岳のホームドクター” とも呼ばれ、信頼されました。

(九州大学島原地震火山観測所 太田一也所長(当時))
「特に心配なのは、火山灰がものすごく積もっている。これが豪雨の時に流れ下ると、今まで以上の土石流発生の危険が高まっている」


しかし、その呼びかけも空しく…、大火砕流が発生。

多くの人命が失われたことに悔しさを募らせました。

(太田一也さん)
「死ななくてよかったのに、亡くなってしまった。これが私は非常に残念でならない。一介の研究者が(避難を)呼びかけても、誰も聞かなかった」

その後も山の状況を観測し続け、“ひげの市長” で知られた当時の島原市長、鐘ヶ江 管一さんらを支え続けました。

1996年には、噴火活動の「終息」を宣言。

その後も災害の記憶を伝える活動を続け、去年3月には噴火災害の教訓や研究成果をまとめた本を出版。

災害の記憶を風化させまいと、火山の研究に生涯を捧げました

(太田一也さん)
「自然災害が発生した場合に、まず自分の命を守るためにどうするか。そういうことを、過去に起きた地震被害を記録に残しておこうと。その成果が『雲仙火山』という本」

当時、島原市職員で太田さんとともに災害対応にあたっていた一人、杉本 伸一さんは噴火災害の記憶をこれからも次世代に伝え続けます。

(雲仙岳災害記念館 杉本伸一 館長)
「“知識” と“意識” は違う。知識はいくらあっても、意識がないとだめ。それはまさしく防災意識というものだろう。それが心に残っている。そういう思いを、ちゃんと引き継いで伝えていく。それが役目」

火山と向き合い、一人ひとりが命を守る行動を考えることが大切と訴え続けてきた太田さん。

15日、入院先の島原市の病院で亡くなりました。90歳でした。

(太田 一也さん)
「個人は個人、行政は行政。
それぞれどうすればいいのかということを、考えることが大事だと思う。
それは自分の命を守るため、地域社会を守るためだから」

太田さんの告別式は17日、島原市で営まれます。

喪主を務める長男の祥紀さんによりますと、太田さんは “教訓を後世に伝えていきたい” という思いで書いた本を去年、出版することができて「自分がやることはすべて終わった。もうこれ以上のことはない」と話していたということです。

最終更新日:2025年1月16日 22:26
    長崎国際テレビのニュース