【特集】長岡空襲 「とうちゃーん、かあちゃーん…泣き叫ぶ声が聞こえた」“子ども”が見た戦争 生き証人が語る空襲体験 《新潟》
1945年8月1日、新潟県長岡市には焼夷弾(しょういだん)が落とされ1488人の命が犠牲になりました。
当時子どもだった生き証人が空襲の体験を語ってくれました。彼ら、彼女たちが今だからこそ伝えたいこととは。
「空襲の前から店はあったんですよ。丸焼けになった。一から始まった。」
長岡市の神田通にある洋服店で、家族で服などを売って88年。伊丹功さん(84)です。
店を一から再建した理由は、1945年8月1日に起きたアメリカ軍による「長岡空襲」。
空襲警報のサイレンが鳴ったのは午後10時30分ごろ。当時6歳の伊丹さんが寝静まったころでした。父の声で目を覚ました伊丹さんは家族7人で家を飛び出しました。
■枕元には常に新品の靴と一張羅の服
こちらは、伊丹さんが当時の状況を描いた絵です。
火の粉から身を守るため布団をかぶって避難する家族。一番端でランドセルを背負っているのが伊丹さんです。枕元には常に新品の靴と一張羅の服を用意していたといいます。
伊丹さん
「出るとき新品の靴を履いて出た用意していた。死に出のためっていうか逃げるためっていうかここ一番。空襲にあうことを想定して、みなさんが用意してたっていうか、私だけじゃなくてひと様も準備していた」
神田に住んでいた伊丹さんが目指したのは長岡のシンボル・水道タンク。近くには信濃川、周りは原っぱに囲まれ、火災から逃れることができます。
しかし…
伊丹さん
「ずっと逃げて行ってる間にあぜ道を逃げたの。それで足をとられたこうやって逃げていてすべった。それで親父はもう先にいて…」
■靴を脱いで逃げる
新品の靴…あぜ道に足を取られて逃げ遅れたといいます。すぐに気づいた父親が引き返してくれて靴を脱いで逃げました。
伊丹さん
「逃げるのがまだ必死だ採ろうと思ったけど心が焦ってた親についていくのが必死だった」
水道タンクを目印に逃げた人はほかにも…。
当時9歳の大森武夫さん(88)です。
大森さんは水道タンクを目印に逃げましたが、火の手が追ってこず途中で立ち止まりました。
大森さん
「うちの裏は全部畑で丸見えだったんですよ、水道タンクが。燃えるのを畑の真ん中くらいでうちが燃えるのを見てた。空襲なんて初めてですからね、経験が。だからすごく怖かった」
一方、当時11歳の金安常男さん(89)は別の方向へ逃げました。
金安さん
「気が付いた時は明るくてどうしようもなかった。火事火事火事、みんな燃えてる」
当時、表町の方から川へと向かう人の流れがあり、家族4人で流れに沿って逃げたといいます。
その時、姉の腕をかすった焼夷弾…。
金安さん
「雨が降ってるみたいに落ちてくるんだよ。火の塊というか…」
焼夷弾が目の前に落ちてきた人もいました。当時6才だった今泉恭子さん(84)です。
家の裏の田んぼの方向へ逃げました。
今原さん
「姉が行ってしまう間に”なにか”が『ざー』っと落ちました。私は何が落ちたかもわからなかったんですけど、足がすくんで立てない。」
雨のようにざーっと落ちてきた焼夷弾。
当時の長岡市の人口は7万5000人ほどで、その上空に1時間40分にわたっておよそ16万3000本の焼夷弾が落とされました。
■市街地の8割が焼き尽くされ
一方で、意外な言葉で焼夷弾を表現する人も。
大森さん(当時9)
「花火のような感じですね。ものすごく焼夷弾が落ちたから、ものすごくきれいだった、本当に」
伊丹さん(当時6)
「怖かったけど、冷静に見上げると綺麗だった。今思うとものすごい反射受けてさ、火の反射できらきらしてさ、焼夷弾落とすとばーっと。綺麗さでいうと花火よりもここの方が花火より綺麗だった」
油の入った焼夷弾は市街地の8割を焼き尽くしました。
その光景は子供心に重く残っています。
■予想外の焼夷弾…「防空壕」の危うさ
取材を進めてみると、避難先とされていたものが分かりました。
「防空壕」です。
戦災資料館の貝沼一義館長によると当時、県から長岡に公共の場所に200個程度防空壕を作るよう指令が出ていて、個人の家でも推奨されていました。
長岡戦災資料館 貝沼一義館長
「空襲が始まる前には、警戒警報というサイレンが鳴ります。それが鳴ると近くの防空壕に避難しなさいというのが、国の方から指示が出ていたという風に聞いている」
しかし、個人の家の防空壕は簡易的なもの。多くの人は指令の通り防空壕に避難したといいます。
今原さん(当時6)
「畳みたいなものを持ってきて、ただあげて、ちょっとどろかけたようなもの。セメントなんかで作る余裕ないんですよ。みんなこんなもんなんです」
金安さん(当時11)
「途中で焼夷弾が落ちてきたから防空壕に入ろうとしたが、満員で入れなかった。だからそのまま土手へ向かった。それが幸いで俺はいま生きているわけだ…っていうのも帰りに来たらそこは全部真っ黒こげだった」
店橋マサさん(当時19)
「祖母を入れてた防空壕を見たらぺしゃっと…」
通常の爆弾の場合、爆風をよけるために防空壕は有効とされていましたが、長岡に落とされたのは火災を狙った焼夷弾。炎に包まれた防空壕は逃げ場がなくなり、窒息死や焼け死んだ人がたくさんいるといいます。
満員で入れなかった金安さんは空襲後、防空壕で亡くなった人たちを目にしました。女性の遺体をひっくり返してみると、赤ちゃんをおんぶしていた形跡があったといいます。
金安さん(当時11)
「ここはな…帰りは切なかったんだ、黒くなってるんだ。木綿の着物のやけぼっくりが背中にくっついたのが出てきた。いまこんなに簡単にしゃべってるけどなんかな…とにかく大変だった、気持ち的にどうしようもなかった」
Q)「赤ちゃんはいなかったんですか?」
金安さん(当時11)
「わからない、ぐちゃぐちゃだもん。」
今原さん(当時6)
「とうちゃーん、かあちゃーんとか、うちのだれだれ見なかったかのーとか、サチコやー、ジロウやーとか、親が子を呼ぶし子どもは親を呼ぶし、探している声が一斉にしました。もう泣き叫んでいましたね」
長岡空襲で犠牲となったのは1488人。そのうち子供は少なくとも280人はいるといわれています。
長岡空襲の証人が幼いころ悲惨な経験をしたのと同じように、いまも多くの子どもたちが叫び声をあげています。終戦から78年たったいまもなお、世界中で争いが絶えることはありません。
金安さん(当時11)
「なんでいつまでも殺し合いばっかりしてんだ。兵隊さんが死ぬことだと思ってもさ、同じ人間だろ?」
大森さん(当時9)
「私の人生においても1番辛いときだったと思います、今から考えると。戦争っていうのはしちゃいけんですね、悲惨です、本当に」
今原さん(当時6)
「もしも自分がその時優位に立ったとしても、平和に解決しなかったら遺恨がのこる。それはその時だけで終わらない、代々つながる。相手の気持ちとおんなじ気持ちで平和にならなければだめ」
伊丹さん(当時6)
「人間ておかしなもんだなと思いますね。せっかくお互い平和を築いたのに…。平和っていうものをしみじみ感じますね」
終戦から守ってきた「平和」。
証人たちはその重みを知っています。
(2023年12月8日放送「夕方ワイド新潟一番」県内ニュースより)