【生きる支え(前)】東日本大震災 「命守りたい」 津波で祖母が行方不明の男性警察官 今春から念願の機動隊に
東日本大震災から6月11日で13年3か月となりました。
プラス1では小学5年生のときに被災し、「今度は自分が命を守りたい」と警察官になった岩手県釜石市出身の男性の「生きる支え」を12日と13日の2回に分けて見つめます。菊池記者のリポートです。
(土砂災害対応訓練)
「疲労を軽減しながら活動を長期化するっていう話ですので」
ひとたび災害が起きれば最前線で対応にあたる。
日々、厳しい訓練に励む男たちがいます。
「いいですか」「はい」
岩手県警察本部機動隊。
この春、ひとりの若者が念願かなって配属されました。
海藤成樹さん。
あの日、守りたかった人がいる。
一緒に暮らしていた祖母のミネ子さんは津波で今も行方不明のままです。
岩手県警察本部機動隊 海藤成樹さん(24)
「生きる支え…」
盛岡の中心部を管轄する盛岡東警察署の菜園交番。
(ロッカー開ける)
ことしの3月まで、海藤さんはこの交番に勤務していました。
「おはようございます」
地域の安全と安心を守る。
交番での大切な仕事です。
「おはようございます」
(震災1か月後の釜石)
震災の1か月後。海藤さんのふるさと、釜石。
未曽有の大災害を生き延び、子どもたちは再会を喜んでいました。
「おはよう(抱き合う)」
「久しぶり」
その中に小学6年生に進級した海藤さんの姿もありました。
避難先の小学校で行われた1学期の始業式で海藤さんは児童会長としてこうあいさつしました。
海藤成樹さん(当時小6)
「進級の決意。鵜住居(うのすまい)小学校6年、海藤成樹。3月11日の東日本大震災の津波で僕たちの鵜住居小学校の校舎は使えなくなってしまいました」
鵜住居小学校の校舎は3階部分まで津波にのまれました。
「みんなで助け合いながらこの震災に負けない強い心でがんばっていきましょう」
あれから13年。
24歳になりました。
(防潮堤)
津波による死者と行方不明者が1000人を超えた釜石。
北部の鵜住居地区は市内で最も多い犠牲者を出しました。
鵜住居小学校の校舎は鵜住居川の河口付近に建っていました。
隣に釜石東中学校がありました。
あの日、卒業式の練習を終えて帰りの会をしている最中のことでした。
最初は大きな地鳴り。
海藤成樹さん
「収まるかなと思っていたんですけども、なかなか収まらずに揺れは大きくなるばかりだったので、『これは非常事態だな』っていうふうに当時、小学生ながらも思った記憶があります」
子どもたちは日頃の訓練通り机の下に隠れます。
やがて隣の中学生と一緒に高台目指して避難を始めました。
普段から防災教育が盛んだった鵜住居小学校。
一連の避難行動は「釜石の出来事」と呼ばれています。
海藤成樹さん
「中学生と小学校の低学年が手をつないでいって、私達は高学年だったので自分たち(だけ)で歩いて」
避難場所にたどりついたのも束の間、どす黒い津波がまちをのみこみます。
子どもたちは命からがら逃げました。
海藤成樹さん
「とにかくずっと走って逃げてた記憶があります。『もちろん学校も流されたんだろうな』っていうのとあとは当時、住んでた箱崎の実家、あとは祖母も」
海藤さんの実家があった海沿いの箱崎町も津波に襲われました。
朝、家族を送り出した後、祖母はひとりで家にいたとみられます。
海藤成樹さん
「来れる時は来て、なんかこう来たくなるような場所ではありますね」
(2000年9月放送 ニュース映像)
24年前、海藤さんが生後10か月の頃に放送されたテレビ岩手のニュース映像です。
実家で飼っていたニワトリがクマに襲われたという内容でした。
祖母 ミネ子さん(当時48歳)
「爆竹を鳴らせば出ていくんですよ。で、また、何分かすると入ってきて電気を照らすと電気の方に向かって『まさか我が家まで』って思ってたのにきのうのきのう、やられるとは思っていませんでしたのでねえ」
優しかった祖母。
海藤さんが習い事を始める時はいつも背中を押してくれました。
(岩手県警察学校卒業式)
「卒業生入場」
警察官になって今度は自分が命を守りたい。
その選択に迷いはありませんでした。
「卒業証書岩手県 巡査 海藤成樹」
災害現場にいち早く駆け付ける機動隊への配属を当初から希望していました。
海藤成樹さん
「機動隊として災害派遣があった際は(被災者に)寄り添った活動が出来ればいいのかなと思っております。可能であれば(祖母を)見つけてあげたいっていう気持ちはあります」
命を守る現場の最前線に立つことから「警察のとりで」とも呼ばれる機動隊。
海藤さんは志を胸に新たなスタートを切りました。