「乗っ取られる」突如現れた“異形の集団” 旧上九一色村、住民の闘い~シリーズ「オウム30年」

地下鉄サリン事件をはじめ、数々の凶悪事件を起こしたオウム真理教。山梨県旧上九一色村の教団施設への強制捜査から3月で30年を迎える中、当時の映像と30年後の証言で事件について考えるシリーズをお届けします。1回目は突如として現れた“異形の集団”から、平穏な生活を守ろうとした住民の闘いの軌跡を振り返ります。
楠間記者
「富士河口湖町の富士ケ嶺地区です。酪農が盛んで静かな風景が広がる地域ですが、まだ上九一色村と呼ばれていた平成の始めに突如としてオウム真理教が進出し、地元住民と激しく対立しました」
1990年、総選挙に多くの信者を送り込んだものの、全員が落選したオウム真理教。
旧上九一色村(現・富士河口湖町)と旧富沢町(現・南部町)に「サティアン」と称する大規模な活動拠点の建設を始めたのは、この年です。
オウム真理教 教団側
「例えば紙を書いて『この法律のここがまずいんじゃないですか』とか。口で言われても分からないですよ」
地元住民側
「役場の担当者が来てあんたと話をしたじゃないですか。あんたは名前を聞いても」
オウム真理教 教団側
「言ってますよ、この人たちには。あなた方の対応がすごいでしょ」
地元住民側
「あんたが言っていることを我々は信用できない」
山梨と同様、教団施設が建てられた熊本県波野村で反対運動が展開され、クローズアップされた教団の異常性。
旧上九一色村でも騒音や汚水の流出など、様々な問題が噴出しました。
村民集会で住民は
「牧草の中に平気で車を乗り入れて踏み荒らしていく。こういった常識を知らない連中です」
村と教団の対立が決定づけられたのは、この頃のことです。
富士ケ嶺地区に住む竹内精一さん(96)は当時、対策委員会の代表委員として教団と向き合っていました。
竹内精一さん(96)
「塀をつくり始めた。塀といっても中途半端な塀じゃない」
竹内精一さん(96)
「鉄板で3メートルほどのを立てて、見えないんだから中が」
竹内精一さん(96)
「すごいことをする集団だなと。普通考えられないよね。この連中、いつ出ていくんだろうか、どうなるんだろうかという苦しみ」
住民による教団の監視は24時間態勢で続けられました。
一方で信者は次から次へと村に転入していきます。
オウム真理教 教団側
「あなたは実際に話を拒否したから、話してもしょうがない」
村は住民基本台帳への記載を拒否する強硬手段にも訴えましたが、信者は「宗教弾圧」と反発し、その後も増え続けました。
サリンが製造された「第7サティアン」など、最終的に建てられた建物は大小10数棟。昼夜を問わず続く工事に労災や事故も相次ぎました。
地元住民
「事故で巻き添えとなったら困るから、みんな起こっている。3回目だもん、怒りきれないよ」
覆面姿の信者による行進もたびたび行われ、異様な光景に住民は青ざめました。
地元住民は
「そりゃ恐ろしいと思ったし、今でも思ってますよ。夜になるとうろうろしているかなとか、いちいち考えていた」
当時、熊本県の施設で強制捜査を受けた教団は捜査を「国家権力による弾圧」ととらえ、敵対するものへの態度を硬化させていました。
オウム真理教 松本智津夫 元死刑囚
「実際は警察対オウムなんだ」
当時は知る由もありませんでしたが、後に現物が押収された旧富沢町の施設での小銃生産や、有毒ガスの研究・開発を決意した時期もこの頃です。
村が乗っ取られてしまうー。苦情を訴えても「証拠は?」と聞く耳を持たない。
竹内さんはこの頃から、カメラを手に取ります。
時には危険もかえりみず、サティアン内部に侵入してシャッターを切りました。
竹内精一さん(96)
「これが盗聴器でこっちが録音機。電話ボックスに盗聴器を入れていた」
この頃、竹内さんの自宅の電話や公民館など5か所からは盗聴器が見つかっています。
当時、教団はロシアから軍用ヘリを購入するなど、大規模な武装化を進めていました。村内でも緊張が高まっていきます。
竹内精一さん(96)
「200人くらいの住民が座り込んだ、男性も女性も。1人や2人じゃない座り込んだのは。工事をやらせないために座り込んだ。オウム真理教の大きい車を出し入れできないよう道をふさいだ」
1994年7月、第7サティアン付近で異臭騒ぎが発生します。施設の周辺ではたびたび、防毒マスク姿の信者が目撃されていました。
教団側は「堆肥の匂い」だとサティアン内部の公開を拒否。松本サリン事件があった、1か月後のことでした。その半年後…
戦後日本の安全神話を覆した、地下鉄サリン事件。竹内さんは「事件は防ぐことができた」と考え続けています。
竹内精一さん(96)
「(強制捜査を)もっと早くやれば防げた」
竹内精一さん(96)
「第七サティアンで作っていたから、そこを見て強制捜査すれば(サリンが)出たから。東京都で作ったわけじゃないからね。富士ケ嶺地区で作って運び込んだもの」
竹内精一さん(96)
「警察と行政の怠慢だと私は言う」
教団施設に強制捜査が入った1995年3月22日。
山梨放送のカメラは後に刺殺された教団ナンバー2の村井秀夫が、教団の潔白を訴える姿を捉えていました。
オウム真理教 故・村井秀夫 元幹部
「(Q.活性炭とかありますが何に使う?)これも空気を浄化するためのもので、コスモクリーナーで有害ガス成分を吸収するもの」
サリン事件の1か月前には、第2サティアンで目黒公証役場の事務長が殺害されていました。
教団との戦いは、一触即発の危険と隣り合わせだったことが、後から明らかになりました。
竹内精一さん(96)
「あそこに第2サティアンがあって、第3サティアンがあって第5サティアンがあった」
富士ケ嶺地区の公民館には、信者らが身に着けていたヘッドギアやガスマスクがしまわれています。
教団の進出は忘れたい忌まわしい記憶。しかし、一部の住民は何が起きていたのかを後世に伝える必要性も感じていました。
対策委員長を務めた江川透さん(2020年取材)
「やはり忘れてはだめだなと。どうしても時間が経つとだんだん薄くなっていくが、やっぱりあったことを伝えていくべき」
竹内さんも教団と対峙する中で撮りだめた写真を、町の図書館に寄贈することにしました。
竹内精一さん(96)
「私は死んでしまうから図書館に置けば見る人は見るだろうし。そういったことはあってはいけない。再びあってはいけないということ」
強制捜査から30年。今の富士ケ嶺地区に、かつて教団施設があった面影はありません。あるのは「慰霊」と刻まれた石碑のみ。
「あんな思いは、子どもたちにはさせたくない」。住民の胸をよぎるのは、複雑な思いです。そこに感傷はありません。