慰霊祭参列の遺族はわずか5人…能登半島地震で風化加速 穴水町に残る戦争の記憶
終戦から79年。時間の経過とともに戦争の記憶が風化するなか、能登半島地震により風化の加速が懸念されています。穴水町に残る戦争の記憶を取材しました。
穴水町・来迎寺。
この寺で、能登半島地震を機に見つかった1枚の写真があります。
来迎寺・加波 和子さん:
「写真を片付けていたら、ちょうどこういったものありまして。中居にいた海軍の方の船っていう風には聞いておるんですけれど」
ボラ待ちやぐらのある穏やかな中居湾。この地域にはかつて海軍の潜水学校がありました。
太平洋戦争末期、日本の戦局は厳しく本土への空襲が激しさを増していきます。当初、潜水学校があった広島県大竹市周辺も機雷投下を受けるなど訓練の継続が難しくなり学校ごと疎開することに。
その疎開先に選ばれたのが穴水町の中居地区でした。中居湾は水深が深く、潜水艦の訓練が可能で、周辺に多数の寺院があり校舎として活用できると判断されたのです。
そして、1945年6月。練習生や上官らおよそ1200人が穴水に移り潜水学校が開校されました。
加波さん:
「中居のところに潜水艦がいっぱいいて。うちの母親は海に出ると時々真っ黒の潜水艦が突然浮き上がってきて、怖い思いもしたっていう風な話も聞きましたね。」
寺院の境内も訓練に使われていたといいます。
加波さん:
「山門、ちょっと階段20段ほどありますけれど、あの横でロープを使って下に降りるっていう、それは潜水艦の蓋が開いて、そこに飛び降りる練習だっていうことを聞いてましたけどね」
さらに、別の寺院には訓練に使われた道具が残っていました。
一乗院・一二三 栄仁 住職:
「こちらの方が銃剣になります。」
これは、訓練用の銃剣。練習生が置いていったものと町民から預けられたもの、大小合わせて5本が保管されています。
一二三住職:
「このようなちっちゃいこの銃剣を持って訓練をする子供というものの命というものが、本当にまだその頃は軽かったのかなっていうふうに思ってしまう部分があります。」
一部の練習生は、魚雷に乗り込み敵に特攻する人間魚雷の訓練を受け、出撃に備えていたといわれています。
町の女性たちも潜水学校で働き始めます。
事務員をしていた東四柳阿さ子さん当時19歳。長男の史明さんは母から当時の様子を聞かされていました。
東四柳 史明さん:
「皆さん海軍の軍人さんできちっとした感じで。非常に生真面目できちっと物事をやるということで、私のおふくろなんかはまだ若かったでしょうからやっぱりあこがれる部分があったんじゃないでしょうか」
ある日、上官に船に乗せられ間近で潜水艦を見たこともあったといいます。
東四柳さん:
「大轟音が鳴り響いていたのにはびっくりしたということ。本人は遠目でいつも湾内で眺めていたけど、近づくことはなかなかできなかったので一番大きい潜水艦をそばでみたことの印象はよっぽど強烈だった。穴水町というのは、この第2次世界大戦と全く無縁な地域じゃなかったんだと」
この地域全体が戦争に染まり始めた頃。太平洋戦争は終戦を迎え、潜水学校はわずか2か月半でその役目を終えることになりました。
「日本が戦争に負けた」
その事実に、練習生たちは憤り、荒れていました。
地福院・谷 良観 住職:
「玉音放送を聞いたときに、なんで日本は負けたんやということで、手元に近くにあったこの馨子を叩いたみたいです。悔しさとか悲しさとか考えられない、今ではちょっと考えられない感情がいろいろあったんだと思います」
東四柳さん:
「若い生徒さんたちを、教官の人たちが一生懸命なだめるのに苦労している姿が印象的だったと言っていました。けど2、3日経つと、皆さんようやく落ち着きを取り戻して、三々五々それぞれの故郷へお帰りになっていったということを言っておりました。」
生き残り、故郷へ帰ることができた練習生。
その一方で犠牲になった人も多くいます。穴水町では出征した672人が命を落としました。
犠牲者を偲ぶ町の戦没者慰霊祭。
「傷付き倒れた多くの御霊に対し、謹んで哀悼の意をささげます」
ことしの参加者は能登半島地震の影響で遺族会の代表者らわずか5人のみでした。
元日の地震は、高齢化により年々減少している遺族会の会員数にも影を落としました。
穴水町遺族連合会・坂本勝義 副会長:
「連絡が取れないんですよ。家族どこにおるか。電話が通じないんです。今後(遺族会を)継続して維持できるかどうか一番心配しとる」
地震により、地元を離れた人も多くいる中、この町の戦争の記憶をどう伝えていくのか。町はいま大きな課題に直面しています。
潜水学校の元練習生たちの交流は戦後も続き、25年前、かつての訓練場所に有志が石碑を建てました。
ただ、高齢化が進み近年は訪ねてくる人もいなくなったといいます。
この町の史実を風化させないために何ができるのか。いまを生きる私たちが考えていかなくてはいけません。