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【特集】「まるで特撮映画」「地下水がボンボン出る」 新潟地震から60年 “経験者の証言” あの日、新潟市では《新潟》

2024年6月15日 20:15
【特集】「まるで特撮映画」「地下水がボンボン出る」 新潟地震から60年 “経験者の証言” あの日、新潟市では《新潟》

新潟地震の発生から6月16日で60年。

新潟地震の被害とは、どのようなものだったのでしょうか。

60年前の記憶を経験者が証言しました。

2024年1月 能登半島地震

「かなり強い揺れが起きています。電柱もかなり揺れています」

2024年の元日。新年早々、県内を襲った大きな地震、能登半島地震。

新潟市内では西区を中心に液状化の被害が相次ぎました。

60年前 新潟地震

そして60年前にも新潟市で発生した大きな揺れ。

「新潟地震」です。

当時撮影していた近藤武夫さん

近藤武夫さん
「建物が完全にゆがんじゃったし、いわゆる地下水の液状化で、水がボンボン出てきている。本当に生まれて初めてで、こんなことがあるんだという思いをしました」

近藤武夫さん当時22歳。自宅にあったカメラで、まちの様子を記録していました。

国体が行われたばかりの陸上競技場

近藤武夫さん
「陸上競技場ですね。これが聖火台で、傾いている。国体が終わって5日目です」

大きく傾いた「陸上競技場」。

1964年6月16日

新潟市で国体が行われた1964年。

6月16日の午後1時2分、新潟地震は発生しました。

震度5を観測

これは地震当日の映像です。

当時の計測では最大の“震度5”を観測した新潟市。

新潟駅前では

新潟駅には多くの人だかり。

白山駅は

一方、白山駅はホームや線路がグニャっと崩れています。

水に浸かった車も

液状化により水に浸かってしまった車も。

14人が死亡

県内で合わせて14人が死亡しました。

近藤さんが開いた写真展

6月、当時の記録をまとめた写真展を開いた近藤武夫さん。

復興した様子が分かるように当時と現在の写真を並べて展示しました。

「“液状化”という名前はなかった」

当時、同僚だった友人、谷沢利勝さんと当時を振り返ります。

「ちょうど私は新潟駅前にいて、駅前のでかいマンホールのふたが飛んで水が噴き出して」
「その頃に“液状化”と」
「名前はその後だけどね。液状化という名前はなかった」
「そう。初めて聞いた」

地震の後、初めて耳にしたという「液状化現象」。

避難する人たちの下駄の音

さらに万代橋で目撃した津波から避難する多くの人。

近藤武夫さんと谷沢利勝さん
「津波も怖かったよ。『津波が来る』といって、逃げてくるときの足音が」
「当時まだ下駄とか履いている人が多くて、その足音がすごいんですよ、とにかく何千人が来るわけだから」
「カタカタカタカタって感じでものすごい」

それぞれの記憶の中にある60年前の体験。

当時小学生 村上市の男性
「慌てて外の校庭に出たら、池の水がこんな感じで(揺れて)ね。金魚がポンポンと、それでピシピシはねて」

当時高校生 新潟市の男性
「あっという間に、このぐらいまでヒザまで水がわいてきて。液状化だと思います」

昭和大橋が倒壊

新潟地震では当時、完成したばかりの昭和大橋が倒壊。橋脚が損傷し橋げたが落下しました。あまりの衝撃に夢中でシャッターを切りました。

近藤武夫さん
「立派になってすごいと思った。わずか1か月後にこうなったので本当にびっくりしました」

倒壊した橋をまたぐ人

さらに、こちらの一枚は・・・

近藤武夫さん
「ここにまたいでいる人がいるんです。割れ目のところに人が見ている。いまじゃ考えられない。すぐに規制線が張られて、入れるわけがないのに」

昭和大橋はどのように倒壊したのか

完成したばかりの昭和大橋はどのように倒壊したのか。新潟市歴史博物館が保管する記録を見せてもらいました。

記録では、川に落下した橋げたは5本、その後引き上げる工事が行われますが、重すぎて切断する必要があり、陸に上げるだけでも数か月はかかるとしています。

「特撮映画のようだった」

新潟市歴史博物館・学芸員 藍野かおりさん
「信濃川のほとりから目撃した人の話だったんですけども。ゆっくりとひとつずつ(橋げたが)落ちて行ったと。ひとつずつ落ちて行っては水柱が上がって、またひとつ落ちて水柱が上がってという。特撮映画を見ているようだったと話していて」

テレビが撮影

一方、こちらは地震直後の万代橋。

よく見るとテレビカメラで撮影する人が。

テレビが一般家庭に普及してきた時代。被害は全国で報じられたといいます。

トランジスタラジオで情報を得る

新潟市歴史博物館・学芸員 藍野かおりさん
「新潟の様子を全国の人たちはテレビで見て、新潟の人たちは停電していますので、テレビを見られる状況ではありませんので。トランジスタラジオを使って地震の情報を得るという」

石油コンビナートで火災

また、地震の影響で現在の東区にあった石油コンビナートで火災が発生。

6月8日、当時の記憶を語る座談会が開かれました。

学区内に石油コンビナートがあった桃山小学校で当時教員だった鍋谷總子さんが振り返ります。

当時桃山小学校教諭 鍋谷總子さん
「当時27歳でした。グラウンドに走ってグラウンドに出るか出ないかでドドーンというものすごい音。振り向いたら昭和石油から煙が立ち上がっていました」

“学校が危ない”

小学校と石油コンビナートは直線距離で約500メートル。鍋谷さんは必死の思いで子どもたちを避難させたといいます。

当時桃山小学校教諭 鍋谷總子さん
「風向きによっては学校が危ない避難しなきゃいけない。保護者が迎えに来た子どもだけ手渡すようにと指示があってみんなで物見山に避難しました」

「真っ黒い煙が上がっていく」

当時の卒業文集には多くの児童が地震について記していました。

卒業文集
「ゴーッという地鳴りと一緒に、地がぐらぐらゆれた」
「空を見上げると、真っ黒い煙が発電所の後から空へ上って行く」

6年生だった泉田雅幸さん。避難先から見た光景を鮮明に覚えています。

避難したら目の前で

当時桃山小学校6年生 泉田雅幸さん
「物見山の高台に避難して目の前で爆発しているわけですよ」

津波で浸水したところに油が

当時桃山小学校6年生 泉田雅幸さん
「津波で浸水したところに油が全部のびてプールみたいになって、それで延焼が激しかった」

137人が焼け出された

当時桃山小学校教諭 鍋谷總子さん
「子どものいる家137人が焼け出された。1割です。親せきの家に行ったとか、知人の家に助けてもらったとかという子どもがいっぱいいました」

新潟市に再び大きな爪痕

そして、2024年1月、能登半島地震が発生。再び大きな爪痕を残した地震。

新潟地震の写真展を開催した近藤武夫さん、いま思うことは。

近藤武夫さん
「60年前の写真で地震を見ても液状化は本当にあったわけだから。まだまだこれからも早く液状化の対策は必要なんだろうと思います」

繰り返された地震、そして液状化の被害。60年前の記憶は復旧への、未来への道しるべとなります。


2024年6月12日「夕方ワイド新潟一番」放送より