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「恐怖で震えながら・・・」釜石・艦砲射撃の体験者 戦地で父親を亡くした女性 2人が平和への思いを語る 岩手

2024年8月15日 20:14
「恐怖で震えながら・・・」釜石・艦砲射撃の体験者 戦地で父親を亡くした女性 2人が平和への思いを語る 岩手
 岩手県釜石市は2度にわたる艦砲射撃で多くの犠牲者を出しました。当時の体験者と父親を戦地で亡くした女性が平和への思いを語りました。釜石支局・柳田記者の取材です。

 今月9日。釜石市で行われた戦没者追悼式。釜石市では1945年の太平洋戦争末期、7月14日と8月9日の2回、連合軍から艦砲射撃を受け、およそ780人が犠牲となりました。

 「ビュー、ドーン、ドーンと砲弾がさく裂した音でした」

 79年前、釜石市が受けた艦砲射撃について語るのは、釜石市甲子町の佐々木郁子さん94歳です。釜石市を襲った艦砲射撃を題材にした合唱組曲、「翳った太陽」を歌う会が曲への理解を深めようと毎年、戦争体験者からの話しを聞いています。

 終戦間近の1945年夏、釜石市は2度にわたって連合艦隊により艦砲射撃を受けました。市によりますと、2度の艦砲射撃で5300発余りの砲弾が撃ち込まれ、釜石市は焦土と化しました。

 佐々木さんは当時15歳、製鉄所内にあった病院で看護師見習いとして勤務していました。7月14日、佐々木さんは警戒警報の発令を受けて病院に駆けつけ、入院患者を防空壕に避難させた後、病院で仕事をしていました。

 「正午間近、上空に敵機襲来の知らせを受けあわてて壕に走り艦砲射撃が始まって、砲弾の炸裂音、地面がぐらぐら揺れて上司より口を開け、耳をふさげと声が響き、私は恐怖で震えながら友を励まし励まされ約2時間砲撃が続いたのです」

 警報が解除され、防空壕を出た佐々木さんが見たのは変わり果てた釜石の姿でした。

 「死体が散乱し、肉親を求める者負傷者は泣き叫び、先を争って治療を乞う人々」



 「父親の顔も、もちろん姿もわかりませんです」

 釜石市平田在住の佐々木郁子さん81歳。佐々木さんの父親は1944年9月に満州に赴き、翌年、故郷に戻ることなく病死しました。佐々木さんは当時1歳、父親のことは人づてに聞くしか知るすべはありませんでしたが、2009年に中国を訪問した際、父親が亡くなった場所に立ちました。

 「満州の太陽は大きくて赤いんだそうですけど、その太陽を見た時に父親もおじさんたちもこの太陽を見たんだなと思うと、感傷的になったと同時に同じ土を踏むことができた喜びがあった」

 過酷な体験、残された家族の思いを聞いた参加者は・・・

 翳った太陽を歌う会 菊地直美会長
 「聞いたことをきちっと心にとめて、戦争はいけないんだ、戦争はしちゃいけないんだということを発信し歌を歌いたい」

 佐々木郁子さん(80)
 「みなさんに覚えておいてほしいということと、生きたくても生きられなかった人、そういう思いを汲んでほしい」

 佐々木郁子さん(94)
 「やっぱり平和です。永久の平和をこどもたちが協力して国を守っていってほしい、私がこの世からお別れしても」

 来年は終戦から80年。当時を知る人は年々減り、94歳と高齢の佐々木さんは、今年で人前で戦争について語るのはおそらく最後と話しています。体験者の声を忘れずに戦争の悲惨さ、平和を訴えていくのは次の世代に委ねられています。