「震災の記憶を語り継ぐ」のと鉄道×三陸鉄道 2つの被災地で走る震災の経験伝える列車 あの日の記憶を乗客の心に刻む語り部
東日本大震災からまもなく14年です。能登半島地震を経験した石川県の「のと鉄道」と、東日本大震災を乗り越えた「三陸鉄道」。「地域の足」として親しまれる2つの鉄道をつなぐ「絆」を取材しました。
(能登鉄道・語り部 宮下左文さん)
「あ!そこそこ!!見えた?あそこにいます。見てください。可愛いね~、見えた方?何人かいる、良かった!」
「のと鉄道」の宮下左文さん。能登半島地震の前はガイドとして観光情報だけを話していましたが、いまは主に地震の記憶を伝えています。
(宮下さん)
「7.6の揺れが訪れたわけです。もうダメかと思いました。列車もこのまま横転するだろうと思った」
語ることを悩んでいた宮下さんを後押ししたのは、岩手の沿岸を走る三陸鉄道での学び、そしてある女性との出会いでした。
去年の元日、石川県の能登半島を襲った大地震。最大震度7の揺れでまちの景色は一変。先月25日時点で、関連死を含め549人が犠牲になりました。
「のと鉄道」も線路が土砂でふさがれるなど甚大な被害を受け、全線で運転を見合わせました。
宮下さんも被災しました。
(宮下さん)
「(本社がある)穴水から戻ってきたら(自宅は)全壊。中に入れるような状況ではなくて絶句した」
今も仮設住宅での生活が続きます。
その後、のと鉄道は、懸命な復旧作業の末、被災からわずか3か月で全線復旧。
一方、宮下さんは当初、地震のつらい経験を人前で話すことにためらいがあったといいます。
(宮下さん)
「みんなが動き始めたのに自分たちだけいくら休めって言われても、なんかこの辺が落ち着かない。なんかやんなきゃ、私たちも。で、会社行った時に社長から言われたのが、どうやら三陸でなんかでこういう語り部列車をやってるけども、『できるか』っていうことで聞かれたんですけど、うーんと思いながらも承諾して始めることとなりました」
去年7月、宮下さんたちのと鉄道の社員は、三陸鉄道を訪れました。
そこで出会ったのは語り部の千代川らん さん。小学6年生の時に東日本大震災で山田町の自宅が被災。未来の命を守りたいと、ガイドになりました。
(千代川さん)
「このあたり全部火事で焼けました。津波の後のその日の夕方」
(宮下さん)
「焼けた範囲はどれくらい?」
(千代川さん)
「東京ドーム3~4個分」
(宮下さん)
「輪島朝市より広い範囲」
(千代川さん)
「いま見えている防潮堤は、震災前の約2倍です」
(宮下さん)
「何メートルくらい?」
(千代川さん)
「約10メートルくらい。被災地はほぼ10メートル以上。海を囲うように壁ができている」
(三陸鉄道 千代川らん さん)
「語り部列車を始めるにあたって自分自身の気持ちの部分とかどうしても話していて辛くなってしまう時が必ず来ると思っていた。自分の心を気持ちを大切にしながら、体調面も気遣いながらやってほしいという話を一番伝えたかった」
「つらいけれど、自分の言葉で伝えないと伝わらない」と、三陸鉄道で学びました。
(記者)
「石川県にあるのと鉄道の穴水駅ホームです。東日本大震災を乗り越え復興のシンボルとなった三陸鉄道の経験は、のと鉄道にどのようにいかされているのでしょうか」
能登半島地震、そして、去年9月の豪雨。語り部として伝えることに迷いはなくなりました。
(宮下さん)
「令和6年能登半島沖地震と名付けられた地震でした。7.6の揺れが訪れたわけです。その時にはこうやって立っていられなかった。必ず皆さんを安全な場所へと誘導します。助けますという声をかけ続けた。揺れが収まり、これで終わるかなと思った12秒後。同じく7.6の揺れの時には、私の声も出ませんでした。もうダメだと思いました。列車もこのまま横転するだろうと思った」
「そして、この館、見てください。このままなんです。震災当時と同じ景気が今映し出されている。電柱が傾いている。16時39分津波警報が出て、あの高台へ私たちは避難をした。お客様ともども私たちが坂を登り始めた」
七尾駅から穴水駅までのおよそ40分間。震災当時の状況や考えてほしいことを自分の言葉で伝えます。
(宮下さん)
「もし皆さんの住んでいるところで巨大地震が起きたこと。考えたことはありますか?私たちも他人事だと思っていた。忘れてはいけない、忘れさせてはいけないという思いで私はこの語り部の仕事を受けた。さあ辛い話だけではないんですよ。これから海がご覧いただけます。高台から深浦漁港~」
(乗客)
「当時の様子が思い浮かぶように語られていて、大変だったのだなと実感した」
あの日の記憶を乗客の心に刻む語り部の仕事。石川と岩手を結ぶキズナが宮下さんの心の支えになっています。
(宮下さん)
「あの時語っていただいた“らんちゃん”。同じ鉄道に携わっているもの同士が、同じ体験をしたもの同士が、そうやってつながっていけるというとても良いキズナが繋がっているように思う」
“震災の記憶を語り継ぐ”ことは、過去を伝え、未来に警鐘を鳴らすこと。
「命を守る力になりたい」
能登と三陸。2つの被災地を走る鉄道は、同じ思いで、力強くメッセージを発信しています。
(能登鉄道・語り部 宮下左文さん)
「あ!そこそこ!!見えた?あそこにいます。見てください。可愛いね~、見えた方?何人かいる、良かった!」
「のと鉄道」の宮下左文さん。能登半島地震の前はガイドとして観光情報だけを話していましたが、いまは主に地震の記憶を伝えています。
(宮下さん)
「7.6の揺れが訪れたわけです。もうダメかと思いました。列車もこのまま横転するだろうと思った」
語ることを悩んでいた宮下さんを後押ししたのは、岩手の沿岸を走る三陸鉄道での学び、そしてある女性との出会いでした。
去年の元日、石川県の能登半島を襲った大地震。最大震度7の揺れでまちの景色は一変。先月25日時点で、関連死を含め549人が犠牲になりました。
「のと鉄道」も線路が土砂でふさがれるなど甚大な被害を受け、全線で運転を見合わせました。
宮下さんも被災しました。
(宮下さん)
「(本社がある)穴水から戻ってきたら(自宅は)全壊。中に入れるような状況ではなくて絶句した」
今も仮設住宅での生活が続きます。
その後、のと鉄道は、懸命な復旧作業の末、被災からわずか3か月で全線復旧。
一方、宮下さんは当初、地震のつらい経験を人前で話すことにためらいがあったといいます。
(宮下さん)
「みんなが動き始めたのに自分たちだけいくら休めって言われても、なんかこの辺が落ち着かない。なんかやんなきゃ、私たちも。で、会社行った時に社長から言われたのが、どうやら三陸でなんかでこういう語り部列車をやってるけども、『できるか』っていうことで聞かれたんですけど、うーんと思いながらも承諾して始めることとなりました」
去年7月、宮下さんたちのと鉄道の社員は、三陸鉄道を訪れました。
そこで出会ったのは語り部の千代川らん さん。小学6年生の時に東日本大震災で山田町の自宅が被災。未来の命を守りたいと、ガイドになりました。
(千代川さん)
「このあたり全部火事で焼けました。津波の後のその日の夕方」
(宮下さん)
「焼けた範囲はどれくらい?」
(千代川さん)
「東京ドーム3~4個分」
(宮下さん)
「輪島朝市より広い範囲」
(千代川さん)
「いま見えている防潮堤は、震災前の約2倍です」
(宮下さん)
「何メートルくらい?」
(千代川さん)
「約10メートルくらい。被災地はほぼ10メートル以上。海を囲うように壁ができている」
(三陸鉄道 千代川らん さん)
「語り部列車を始めるにあたって自分自身の気持ちの部分とかどうしても話していて辛くなってしまう時が必ず来ると思っていた。自分の心を気持ちを大切にしながら、体調面も気遣いながらやってほしいという話を一番伝えたかった」
「つらいけれど、自分の言葉で伝えないと伝わらない」と、三陸鉄道で学びました。
(記者)
「石川県にあるのと鉄道の穴水駅ホームです。東日本大震災を乗り越え復興のシンボルとなった三陸鉄道の経験は、のと鉄道にどのようにいかされているのでしょうか」
能登半島地震、そして、去年9月の豪雨。語り部として伝えることに迷いはなくなりました。
(宮下さん)
「令和6年能登半島沖地震と名付けられた地震でした。7.6の揺れが訪れたわけです。その時にはこうやって立っていられなかった。必ず皆さんを安全な場所へと誘導します。助けますという声をかけ続けた。揺れが収まり、これで終わるかなと思った12秒後。同じく7.6の揺れの時には、私の声も出ませんでした。もうダメだと思いました。列車もこのまま横転するだろうと思った」
「そして、この館、見てください。このままなんです。震災当時と同じ景気が今映し出されている。電柱が傾いている。16時39分津波警報が出て、あの高台へ私たちは避難をした。お客様ともども私たちが坂を登り始めた」
七尾駅から穴水駅までのおよそ40分間。震災当時の状況や考えてほしいことを自分の言葉で伝えます。
(宮下さん)
「もし皆さんの住んでいるところで巨大地震が起きたこと。考えたことはありますか?私たちも他人事だと思っていた。忘れてはいけない、忘れさせてはいけないという思いで私はこの語り部の仕事を受けた。さあ辛い話だけではないんですよ。これから海がご覧いただけます。高台から深浦漁港~」
(乗客)
「当時の様子が思い浮かぶように語られていて、大変だったのだなと実感した」
あの日の記憶を乗客の心に刻む語り部の仕事。石川と岩手を結ぶキズナが宮下さんの心の支えになっています。
(宮下さん)
「あの時語っていただいた“らんちゃん”。同じ鉄道に携わっているもの同士が、同じ体験をしたもの同士が、そうやってつながっていけるというとても良いキズナが繋がっているように思う」
“震災の記憶を語り継ぐ”ことは、過去を伝え、未来に警鐘を鳴らすこと。
「命を守る力になりたい」
能登と三陸。2つの被災地を走る鉄道は、同じ思いで、力強くメッセージを発信しています。
最終更新日:2025年3月6日 19:29