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いまもレースの行方を見守り続ける ことし満100歳を迎えた山形県縦断駅伝・第1回優勝チームの元ランナーの思い

2024年4月30日 20:29
いまもレースの行方を見守り続ける ことし満100歳を迎えた山形県縦断駅伝・第1回優勝チームの元ランナーの思い

68回を数える山形県縦断駅伝で、第1回大会の総合優勝を飾ったのはどのチームかご存知でしょうかー。その第1回優勝チームのランナーを務めた男性がいまも3日間のレースの行方と選手たちの走りを見守り続けています。ことし満100歳を迎えた縦断駅伝優勝チームの元ランナーを取材しました。


3日間のレースの“覇者”となったチームが手にする優勝旗ー。過去の大会を制したチームの名が添えられています。

その第1回大会の総合優勝を飾ったのは…「西村山」でした。

第1回優勝チームのランナーだった河北町の男性が、いまも熱心に県縦断駅伝のレースを見続けているー。そんな話を耳にした私たちはこの男性を訪ねました。

元駅伝ランナー河内秀夫さん。大正13年に生まれ、3月に満100歳になりました。

河内秀夫さん『毎年(楽しみにしている)』『(選手時代を)思い出す』『接戦になったときだな』(河内さんも競り合いになったことあった?)『あった…』

山形県縦断駅伝の第1回大会は、いまから70年近く前の昭和30年の開催。河内さんは第1区のランナーとして出場しました。当時の資料には、1位でたすきをつないだ河内さんの活躍が記録されています。

河内秀夫さんの長女・かづ子さん『(娘の私が)小学校の3年生か2年生くらいのとき、駅伝チームが走るから全員並んで応援しましょうって全校で外に出て応援された。自分の父ちゃんが走ってるっていうのは恥ずかしくって、人の陰に隠れて見てた』

チームはその後、「西村山」から「寒河江・西村山」となり、第2回、第3回大会と総合優勝を重ね、3連覇を成し遂げます。

河内さんらの活躍にわく河北町の広報紙には当時、このような見出しが踊っていました。『自転車より早い走り方河内、逸見両選手力走』

河内秀夫さんの長女・かづ子さん『町長さんから市長さんからみんな3日間、車に乗って選手と一緒に応援していた。町あげて声援していたみたい』

河内秀夫さん『(沿道に)人は大勢いた。珍しくて…』『1回目(優勝時)なんかは大騒ぎだった』

100歳になる河内さんは戦時中、中国に出征ー。
その戦地からの生還後に競技としての“走り”を本格的に始めました。

長女・かづ子さん『(駅伝選手として)自分は30歳を超してたから(父が)走り始めたのは20代からだから、戦争から帰ってきてからだから、(選手の年齢としては)後の方だって自分では言っていた』

『走り始めたのは何歳から?』
河内秀夫さん『24、25歳か…』

河内さんは草履屋での修行を経て第1回大会優勝の年の昭和30年に「河内スリッパ」を創業。
“履き心地の良さ”にこだわったスリッパづくりを続けてきました。

河内秀夫さん『東京の製品を見て、分解しながら、どうやって作ったらいいか、いろいろ考えた。夢のなかにもスリッパが出てきた…』

スリッパ職人として90歳を過ぎても工場に立ち続けた河内さん。作業の傍ら、3日間の駅伝実況に耳を傾けるのが何よりの楽しみだったと言います。

河内秀夫さん『(天童・東村山が)とうとう追いついた…』

長女・かづ子さん『駅伝を通じて自分より若い人、(かつて)一緒に走ったり、監督やってた時の若い選手が時々顔出して話し相手をしてくれるから、それも父の楽しみ、それがあるから長生きでできているのかなと』

かつて県内を駆け抜けた100歳の元ランナーは、再来年に70回の節目を迎える大会を見ることをいまから楽しみにしていました。