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プロレスラー棚橋、人生の最期はジョークで

2021年7月9日 18:00
プロレスラー棚橋、人生の最期はジョークで

7月10日に放送される日本テレビ系列のバラエティー番組『有吉反省会』(毎週土曜日よる23時30分から放送)にプロレス界で“100年に一人の逸材”と呼ばれる人気プロレスラー・棚橋弘至さん(44)が初出演。そんな棚橋さんの波乱万丈なプロレス人生について取材しました。

棚橋さんは1976年11月13日生まれ。身長181cm体重101kg。現在新日本プロレスで活躍するプロレスラーです。どんなに多忙でも「疲れたことがない」と公言することから、“疲れない男・棚橋”としても有名です。


■プロレスラーを目指すきっかけは“3カウント”

小中高時代は生粋の野球少年だったという棚橋さん。高校生のある日の深夜「たまたまプロレスの中継がやっていて」、当時のプロレス界を代表する小橋建太選手の試合が目にとまったといいます。

これまでプロレスに関しては「祖母が見ていた時に一緒に見たことはある」という程度で、さほどプロレスに興味を示していなかった棚橋さん。“相手選手の肩をマットに押し付け、レフェリーが3カウント数えたら勝利”とシンプルなルールだけを頭に中継をボーッと見ていたといいます。

試合は小橋選手が攻められ劣勢。さらに相手選手の「バックドロップ」が決まり、棚橋さんも“これで終わりだな”と思ったその直後、小橋選手が3カウント直前に相手選手を振りほどき復活。この時「何だ!これは!?」と棚橋さんは衝撃を受けたといいます。その後も倒れては何度も立ち上がる小橋選手の姿を見て「一気にプロレスの魅力に引き込まれていった」といいます。


■入門テスト合格後の最初の試練は“大学卒業”

その日を境に、すっかりプロレスにハマってしまった棚橋さん。大学進学後は「アマチュアレスリング部」や「プロレス同好会」に所属し、毎日プロレスざんまい。空き時間があればトレーニングや練習に費やす日々を送り、68キロだった体重が80キロにまで増量。帰省のたびに大きくなる体を見ていた母親からは「大学で何をやっているんだろう」と心配されていたといいます。

その後、大学在学中に3回「新日本プロレス」の入門テストを受け、3回目で見事合格。プロレスラー人生の1歩を踏み出しました。ところが『新日本プロレス』の大先輩・長州力さんから意外な言葉が告げられます。「何が起こるかわからないから大学だけは出ておけ」。ケガが付きもののプロレスを危惧した大先輩から助言です。しかし、大学中退を考えていた棚橋さんにはキツ〜イひと言だったといいます。

プロレスざんまいだった棚橋さんに与えられた『大学卒業』という試練。この時、卒業するまでに必要な単位は58。しかし、その時点で登録できる単位の限界は60。3単位落としたら留年という危機的状況だったといいます。「同期の奴らはプロに揉まれているのに??」そんないら立ちと葛藤を抑えつつ、全ての単位を登録。下級生が並ぶ教室の最前列を陣取り1日講義を受けることもあったといいます。そして1年後、大学を無事に卒業しました。

1999年、1年越しの入門に胸を踊らせ、指定された日時に『新日本プロレス』の事務所へと足を運んだ棚橋さん。そこで衝撃的な事件が…「事務所が休みだった」。なんと、指定された日は事務所の定休日。「岐阜の出身で東京のことは何もわからないし、途方に暮れてドトールでコーヒー飲みました」と振り返る棚橋さん。たまたま近くにあった“闘魂ショップ”で『新日本プロレス』の道場に連絡を取ってもらい、なんとか入寮したといいます。


■プロレス人気を再び取り戻すため苦労の日々

今でこそ“100年に一人の逸材”といわれる棚橋さんですが、入門からは苦難の連続。プロレス人気の低迷期には「動員に苦しんだ時もあるし、うんともすんとも会場が盛り上がらない時もありました」と棚橋さん。総合格闘技がブームとなった2000年代には「プロレスラーが出場して負けたり、内部のゴタゴタとかスキャンダルとかいろいろあったり、10年はキツかったですね」といいます。

プロレス人気を復活させるため、棚橋さんはプロレスラーとしてはいち早くブログを開設。さらに様々なイベントに出演しプロモーションを行うなど、各地でプロレスの魅力を発信していきます。そのやり方に昔からのファンからは批判されることもあったそう。しかし、棚橋さんは「俺は間違っていない。今までのやり方でビジネスが下がったんだったら、何か変えないと『新日本プロレス』は上がるはずがないと思ったので信念を持ってやりました」と力強く語りました。

「どのように気持ちを鼓舞していたのか?」と、質問をしたところ「僕はプロレスを見るようになって生活がむちゃくちゃ楽しくなったんです。プロレスラーが立ち上がる姿に元気をもらって明日も頑張ろうって思えた。そういう人は絶対にまだいる。それだけを信じて頑張った」と晴れやかな顔で答えました。


■“疲れない男”が描く一世一代のジョーク

棚橋さんの努力もあり、プロレス人気がV字回復を遂げた2012 年。名実ともにスター選手に上り詰めた棚橋さんは『新日本プロレス』で最も歴史のあるベルト「IWGPヘビー級王座」を11回の連続防衛に成功する偉業を成し遂げました。その時、リングに海外遠征から凱旋帰国したオカダ・カズチカ選手が登場。

「オカダは“最多防衛記録更新おめでとうございます!お疲れ様でした!これからは僕の時代です”って言ってきたんですよ」と“下剋上”を意味する言葉で挑発してきたといいます。

棚橋さんは「“お疲れ様です”だけを拾ってしまって“いや、俺は生まれてから疲れたことないんだ”って返しちゃったんです。これで疲れられない十字架を背負っちゃいました」と、『疲れない男・棚橋』の誕生秘話を明かしてくれました。

そして「勘違いから10年。ソファでため息をついたりすると。スタッフとか子供から“疲れたの?”なんて言われますが“疲れてないよ”って答えます」と語る棚橋さん。さらに「僕が疲れるのは死ぬ時だと思っているんですよ。だから最期の言葉は“疲れた”って言って笑わせて終わりたいですよね」と、死に際は一世一代のジョークで締めくくりたいと語りました。

取材時間を過ぎても笑顔で取材に棚橋さん。取材スタッフが部屋を出る時に「お疲れ様です」と伝えると、棚橋さんは「疲れてないです!」と笑顔で返してくれました。