『過去を知る 未来に伝える』 延岡大空襲から80年 空襲目撃者の証言と後世に伝える取り組み
テレビ宮崎
戦後80年を迎える今年、#Linkでは、~過去を知る未来に伝える~をテーマにした特集をシリーズで放送しています。
6日は戦争を知る人が少なくなる中、延岡大空襲を目撃した男性の証言と、被害を地図にまとめた男性を取材しました。
1945年6月29日午前1時15分ごろ。空襲警報が鳴り響く中、延岡市は広範囲でアメリカ軍のB29による焼夷弾攻撃を受けました。
延岡市野地町の原田格さん91歳です。この時の空襲を市街地が一望できる高台から見ていました。
(原田格さん)「ベンベルグ(工場を)狙ったと思うけど、こちらからだったですもんね。こっちからずーっと。ばたばたーって行くと。焼夷弾ですから。ぶわーっと吹き上がるわけよ。バンバンバンと映画を見てるごとあった。」
原田さんは当時、小学6年生。赤痢にかかっていて防空壕に入れず、茶園のお茶の木につかまって空襲の様子を見ていました。
(原田格さん)
「(焼夷弾が)だーっと100mおき位に来たのが、ここさ落ちたんですよ。私ここにおったんですよ。だーんという音と同時に、土手ですから。火のついた油ですね。田んぼに向けてドンだから、だから私助かった。あと5m位こっちだったら、私直撃。びっくりしました。」
空襲後に行われた調査によると、死者が130人、被災した家屋は3765戸にのぼり、市役所や内藤記念館なども焼失しました。
また、戦後市内に建てられた慰霊碑では、300人以上が犠牲になったとされています。延岡の街を火の海にした焼夷弾。その一部が民家に残されていました。
Q・これはどんな部品なんですか?
(実家が被災・甲斐秀人さん)
「これは焼夷弾を束ねた弾頭。頭の重りになるようです。」
延岡市大貫町に住む甲斐秀人さんです。
甲斐さんの実家は、この大空襲で焼夷弾の直撃を受け焼失。家の周囲にある木々には、今でもその痕跡が残っています。
(甲斐秀人さん)
「ここが火災で全部焼けましたので、焦げたんですね。焦げても木が残ってて、後ろの大丈夫な所から皮が巻いてきてこうなったという風に親父が言ってました。」
甲斐さんは、当時の状況に興味を持っていましたが、80年前の大貫町は延岡市の西側に位置する南方村の一部で、神社の戦災記念碑など限られた情報しか残っていませんでした。
甲斐さんは、空襲の歴史を風化させたくないと、所属する「南方の歴史文化研究会」の協力を得て被災した世帯を記した地図の作成に取り組みました。
(南方の歴史文化研究会・甲斐秀人さん)
「今が最後じゃないでしょうかね。実際の経験者というのはごくわずかです。」
甲斐さんは、戦災記念碑に残された被災世帯の名前を元に、住所を割り出したり、子孫を訪ね歩いたりして被害状況を調べました。
また同じ南方村だった野地町については、当時被災した住宅を1軒1軒見て回った原田格さんに情報を提供してもらいました。
地図はおよそ1年かけて去年12月に完成。
80年の時を経て、空襲で被災した大貫町と野地町の姿が可視化されました。
大貫町で全焼52戸、半焼6戸、野地町で全焼16戸、半焼2戸となっていて、のどかな農村地帯でも広い範囲で被害があったことが伺えます。
(南方の歴史文化研究会・甲斐秀人さん)
「子どもたちにですね、戦争があったんだぞと実際に焼けたぞと、こことこことここ、これ指し示すことができればいいかなと」
また調査を進める中で、甲斐さんは大貫町で子ども2人を含む6人が犠牲になったことを初めて知りました。
(南方の歴史文化研究会・甲斐秀人さん)
「年よりから子どもまで小学校に上がる前の子どもが死ぬ。それは実際に今のウクライナなどのニュース見てたらわかると思うんですけど、80年前に日本もそうだったというのを知ってもらいたい。」
大貫町の自治会では、今後、犠牲者の名前を戦災記念碑に追加することを検討しています。
戦争体験者の高齢化で当時を知る人が減っていく中、戦争の「記憶」を「記録」として残していく取り組みは、戦争の悲惨さを後世に伝えるうえで大きな意義を持っています。
(原田格さん)
「今になったらなかなか知っている人もおらんでしょ。歴史に残さないといかん。こういうことがあったということはね。大事なことだと思います。戦争はやっちゃいかんですわ。こういうことはやっちゃいかん。と思います。」
6日は戦争を知る人が少なくなる中、延岡大空襲を目撃した男性の証言と、被害を地図にまとめた男性を取材しました。
1945年6月29日午前1時15分ごろ。空襲警報が鳴り響く中、延岡市は広範囲でアメリカ軍のB29による焼夷弾攻撃を受けました。
延岡市野地町の原田格さん91歳です。この時の空襲を市街地が一望できる高台から見ていました。
(原田格さん)「ベンベルグ(工場を)狙ったと思うけど、こちらからだったですもんね。こっちからずーっと。ばたばたーって行くと。焼夷弾ですから。ぶわーっと吹き上がるわけよ。バンバンバンと映画を見てるごとあった。」
原田さんは当時、小学6年生。赤痢にかかっていて防空壕に入れず、茶園のお茶の木につかまって空襲の様子を見ていました。
(原田格さん)
「(焼夷弾が)だーっと100mおき位に来たのが、ここさ落ちたんですよ。私ここにおったんですよ。だーんという音と同時に、土手ですから。火のついた油ですね。田んぼに向けてドンだから、だから私助かった。あと5m位こっちだったら、私直撃。びっくりしました。」
空襲後に行われた調査によると、死者が130人、被災した家屋は3765戸にのぼり、市役所や内藤記念館なども焼失しました。
また、戦後市内に建てられた慰霊碑では、300人以上が犠牲になったとされています。延岡の街を火の海にした焼夷弾。その一部が民家に残されていました。
Q・これはどんな部品なんですか?
(実家が被災・甲斐秀人さん)
「これは焼夷弾を束ねた弾頭。頭の重りになるようです。」
延岡市大貫町に住む甲斐秀人さんです。
甲斐さんの実家は、この大空襲で焼夷弾の直撃を受け焼失。家の周囲にある木々には、今でもその痕跡が残っています。
(甲斐秀人さん)
「ここが火災で全部焼けましたので、焦げたんですね。焦げても木が残ってて、後ろの大丈夫な所から皮が巻いてきてこうなったという風に親父が言ってました。」
甲斐さんは、当時の状況に興味を持っていましたが、80年前の大貫町は延岡市の西側に位置する南方村の一部で、神社の戦災記念碑など限られた情報しか残っていませんでした。
甲斐さんは、空襲の歴史を風化させたくないと、所属する「南方の歴史文化研究会」の協力を得て被災した世帯を記した地図の作成に取り組みました。
(南方の歴史文化研究会・甲斐秀人さん)
「今が最後じゃないでしょうかね。実際の経験者というのはごくわずかです。」
甲斐さんは、戦災記念碑に残された被災世帯の名前を元に、住所を割り出したり、子孫を訪ね歩いたりして被害状況を調べました。
また同じ南方村だった野地町については、当時被災した住宅を1軒1軒見て回った原田格さんに情報を提供してもらいました。
地図はおよそ1年かけて去年12月に完成。
80年の時を経て、空襲で被災した大貫町と野地町の姿が可視化されました。
大貫町で全焼52戸、半焼6戸、野地町で全焼16戸、半焼2戸となっていて、のどかな農村地帯でも広い範囲で被害があったことが伺えます。
(南方の歴史文化研究会・甲斐秀人さん)
「子どもたちにですね、戦争があったんだぞと実際に焼けたぞと、こことこことここ、これ指し示すことができればいいかなと」
また調査を進める中で、甲斐さんは大貫町で子ども2人を含む6人が犠牲になったことを初めて知りました。
(南方の歴史文化研究会・甲斐秀人さん)
「年よりから子どもまで小学校に上がる前の子どもが死ぬ。それは実際に今のウクライナなどのニュース見てたらわかると思うんですけど、80年前に日本もそうだったというのを知ってもらいたい。」
大貫町の自治会では、今後、犠牲者の名前を戦災記念碑に追加することを検討しています。
戦争体験者の高齢化で当時を知る人が減っていく中、戦争の「記憶」を「記録」として残していく取り組みは、戦争の悲惨さを後世に伝えるうえで大きな意義を持っています。
(原田格さん)
「今になったらなかなか知っている人もおらんでしょ。歴史に残さないといかん。こういうことがあったということはね。大事なことだと思います。戦争はやっちゃいかんですわ。こういうことはやっちゃいかん。と思います。」
最終更新日:2025年3月6日 20:07