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【コラム】涙の入居編…イギリスで出会った「微笑みの貴公子」【ロンドン子連れ支局長つれづれ日記】

2023年2月13日 18:13
【コラム】涙の入居編…イギリスで出会った「微笑みの貴公子」【ロンドン子連れ支局長つれづれ日記】

「ロンドン、結構大変だよ。母ひとり子ひとりで行くのは正直キツいかも……」かつて現地で暮らしていた友人から眉根を寄せて心配されても、「いや~、中国で特派員してたし大丈夫、大丈夫」と笑い飛ばしていた私。今は、あの時の不遜な自分をなじりたい気分だ。

赴任したのは暮れも押し迫った12月29日。日系の不動産会社に物件探索を依頼するも、「いや~、この時期は休暇なので、全然動きがありませんねえ」とにべもない答え。しかたなくネットで家を選び、オンライン内覧を依頼する。担当してくれたロシア系のゴーシャさん。けぶるような金髪の美女なのだが、カメラの動きがものすごく速い。

「あ、ちょっとゆっくり動かしてもらえますか?」といっても、「こんな感じ?」(それでも速くて全然見えない)「周りの環境も見たいので、ちょっと外に出てもらえますか?」「私、次のアポが迫ってて忙しいのよ~」(ええ~! 1時間はOKって言ったじゃん……)という感じで、だんだんこちらも面倒くさくなり、えいや!で物件を決めてしまった。少々不安だったが、まあ物件がないのだし、仕方がないかと……。

1月3日。引っ越し当日に不安は的中する。

こちらでは、退去の時に借り主が汚したり壊したりしたところを調べるために、入居時の状況確認というものがおこなわれるのだが、190センチはあろうかという黒人のお兄さんがすでに来ていて、「まあ、大体オッケーだね、うん」と一人うなずくと、「え? 鍵は? 不動産屋さんは?」と疑問符だらけの私を残して、風のように去って行ってしまった。

しかたなく、コンシェルジュとは名ばかり、インド人系管理人のおじさんに鍵をくれ、と頼むと、「しょうがないねえ。まあ、不動産屋は来ることも来ないこともあるからねえ」と苦笑いしながら鍵を渡してくれた。

いざ中に入ってみると、まず、鍵が鍵穴に入れてもうまく回らない、ドアベルが鳴らない、居間のソファに真っ白いシミがある、壁はシールの跡だらけ、トイレットペーパーのロール掛けとタオル掛けが壊れて床に落ちている、居間にテーブルはあるが椅子が一つもない、暖房が10個中2個しかつかない、いくつかランプはあるが、電球が一つもない、等々、問題だらけ……ゴーシャさんに連絡すると「あたしたちは貸すだけだから、そういう文句は大家さんに言ってね」と華やかな笑顔。

しかたなく連絡を入れると、大家さん「好きな家具、適当に買って」と……。座るところもないので、その日のうちにIKEAに遠征し、椅子やらソファやらを調達。

やれやれ、とスーパーで買った冷凍ピザをオーブンに入れると、「ボン!」と音がして台所の電気が一斉に消灯。ブレーカーが落ちたらしい……。先ほどの管理人Jacobさんのところに駆け込むと、「ピザ焼いただけでヒューズが飛ぶなんざ、オーブン取っ替えるしかないね」。食べるものがなくなり、パンとチーズ(こちらで安く買える“三種の神器”的食材)という聖餐のような食事を23時すぎに済ませ、「ああ、もう!」と叫んだら、最後にトイレが詰まるというおまけ付きだった。

■救世主は「ヨン様」

さんざん大家さんに掛け合った末、登場したのが「ヨン様」である。あの「微笑みの貴公子」のことではない。Ionでヨン。「オレの故郷ルーマニアではヨンだけど、こっちではみんなジョンって言うな。ロシア語ではイワンかな」。戸口に現れた彼を見て、さんざん荒野をさまよった後の聖人みたいな姿に衝撃を覚えたが、この白髪のおじいちゃん、なかなかスゴ腕だった。

「腕のいい職人を送ったから」と大家さんから突然メールが来て、翌朝8時にドアが叩かれた。(もちろん明日、というだけで時間は言われていない……)「これはパイプの接合がひどいな」と言いながら詰まったトイレを壁から取り外し、ガンガンやって直してしまった。

「次は?」というので、暖房を見せると、「ああ、これも敷設がひどい。オンにするとスイッチが器具からはみ出ちゃう。設計ミスだ」といってガンガン暖房器具の覆いを壊し、無事10個の暖房のスイッチを入れてくれた。(その残骸を掃除するために掃除機を買いに走ったことは言うまでもない)。

この亀仙人みたいなヨン様、すごいのはその腕だけじゃない。作業しながら、のべつまくなし、ず~っとしゃべっている。それも、「ルーマニアの言語体系について」。「オレは中学しか出ていないが、言語学に興味があって、バチカン市国の図書館に行って文献を調べた。これを見てみろ」と言いながら、ロンドン大学の言語学教授のネット講義を流し始めた。20分間の講義を聴き終えると、いいか、ルーマニアの言葉というのは、ラテン語だけじゃなく、インドの言葉やらなにやら多言語が交ざり合ってできているんだ、みたいなことを滔々と語る。

実は、ヨン様の英語はとてつもなくわかりづらい。一応、私はアメリカの大学も出ているし、英語は問題ないだろう、と来てみたら、ブリティッシュ英語も難解だし、さらに移民英語がさっぱりわからない。ヨン様の言うことも30%ぐらいしか理解できないのだが、一つだけ強烈に伝わってきたことがある。それは、彼がルーマニアの言語、そして祖国に強烈な誇りを抱いているということだ。そして彼自身の仕事にも。

「オレは職人として祖国で15年、イギリスで35年の経験を積んだ。だから下水管やセントラルヒーティングのシステムを知り尽くしてる。若い連中にはマネできっこない」と胸を張った。

「おまえは何の仕事をしている?」と聞くので、「ニュースを日本に送っています」と答えたら、「祖国に根っこがあるってのはいいことだ。オレみたいに宙に浮いちまった根無し草は帰る場所がない」とさみしそうな顔でつぶやいた。ヨン様は仕事を終え、玄関から廊下に出たあとも、ずっとしゃべり続けていた。

「いいか、大事なことは観察することだ。まわりをよく見ろ。まわりを見ないでただ考えていることは大抵一人よがりだ。観察が哲学を生む。人生は哲学の探究だ」。うなずいて、「またお会いしたいです」と言うと、ヨン様はにやっと笑ってウインクした。

「じゃあ、またトイレか水道管あたりをぶちこわすことだな」。ルーマニア人として、職歴50年の職人として、誇りに満ちた笑顔だった。

入居から1か月。相変わらず我が家には連日、セルビア人やポーランド人の職人さんが来ているが、修理が終わる気配は見えない。さらに新たなトラブルも続発している。でも、またいつかヨン様に会えるかと思うと、そんなてんやわんやな毎日もちょっと楽しみだったりするから不思議だ。

■筆者プロフィール

鈴木あづさ:NNNロンドン支局長。警視庁や皇室などを取材し、社会部デスクを経て中国特派員、国際部デスク。ドキュメンタリー番組のディレクター・プロデューサー、系列の新聞社で編集委員をつとめ、経済部デスク、「深層ニュース」の金曜キャスターを経て現職。「水野梓」のペンネームで日曜作家としても活動中。最新作は「彼女たちのいる風景」。