原発事故14年… 福島・浪江町の伝統工芸 かつての店舗“震災遺構”に【キキコミ】

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2025年3月3日、私が訪ねたのは、松永武士さん36歳。
かつて住んでいた、福島県浪江町を案内してもらうと。
○櫻井
「この先は帰還困難区域・・・」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「あちらは帰還困難区域で、申請しないと人は入れない状況」
14年がたとうとしているいまも、一部地域では避難指示が解除されていませんが、武士さんの実家があった場所は2023年にようやく避難指示が解除されました。
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「こちらは私が高校まで住んでいた実家です」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「人が14年住まなくなると、このようになってしまう」
○櫻井
「こんなに荒れちゃうんですか…」
ガラスが割れ、部屋の中は物が散乱、当時つかっていたものがそのまま残されていました。
隣に立つ建物は。
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「もともと焼き物を売っていたお店です」
○櫻井
「本当にそのままなんですね」
この場所はかつて、浪江町に伝わる大堀相馬焼、「松永窯」の店舗でした。
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「揺れによるものではなくて、14年誰も入っていなかったのでイノシシやサルが入って荒らして、このようにぐしゃぐしゃに」
店内を見渡すと。
○櫻井
「これ足跡ですか?」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「人の足跡ではないですよね」
○櫻井
「たしかに・・・」
2023年、武士さんは震災後はじめて足を踏み入れたといいます。
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「ショッキングでしたし、心が痛んだなというのがあった。最初見られなかったんですけど向き合うしかないかなと。遺構、遺産のような形で次世代に残していきたいなと」
当時の記憶や教訓を残すため、この場所を震災の遺構として保存することを決めたのです。
○櫻井
「なぜ残そうと決め手は?」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「ほとんどの家は解体を選ぶ。まっさらになってしまうんです。このエリアが。そうなると何があったのか説明できない」
「津波の遺構は浪江町にもあるし、東北3県、被災したところにはあるが、原発事故を伝えるものはなかなか今はなくて」
3月下旬にも一般公開できるよう準備を進めているといいます。
○櫻井
「どういった方に見てもらいたいですか」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「3.11を知らない世代、若い世代、これから生まれてくる人、ほんとに記憶がだんだん風化されていくので」
「写真とか動画ではわからないにおいとか雰囲気もこみで感じ取ってもらいたい」
原発事故により「松永窯」はいま、浪江町から80キロほど離れた西郷村で営業しています。
○櫻井
「すごいきれいな陶器ですね」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「300年続く伝統的工芸品です」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「二重構造になっていて、熱いお茶をいれて触っても熱くない」
福島県浪江町に伝わる大堀相馬焼。
「二重焼き」や、独特な「ひび割れ模様」などが特徴です。
父・和夫さんが窯をあけて“ある音”を聞かせてくれました。
○櫻井
「鈴がなるように…」
熱された陶器が外気に触れ、冷えて縮むときに細かいヒビが入っている音だといいます。
このヒビを出すための釉薬も原発事故の影響をうけていました。
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「もともと地元の砥山石という石を使ってこの釉薬が作られていたんですが、原発事故で使えなくなってしまって」
採掘場は帰還困難区域内にあるため、原料がとれず、今も地元の土や石は使うことができません。
ただ、今年になってある動きが。
復興庁は1月から浪江町で採れる「砥山石」などの調査を始めました。
再び活用できるのか、期待が高まっています。
○大堀相馬焼「松永窯」3代目
父・松永和夫さん(76)
「やっぱり地元の本来のものが使えれば一番ありがたいこと」
○櫻井
「“地元のもので作る大堀相馬焼が”一番の重みというか大切にされているところ」
武士さんはもともと、家業を継ぐつもりはありませんでしたが、震災をうけ、一緒に大堀相馬焼を再興しようと父に持ちかけました。
○櫻井
「原発事故は大きなきっかけにはなっている?」
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
父・松永和夫さん(76)
「複雑な気持ちで、俺の代で終わるはずだったのが、原発の事故でまた一緒にやるようになった」
武士さんを突き動かす“伝統をつなぎたい”思いと、“町の記憶を残したい”思い。
○大堀相馬焼「松永窯」4代目
松永武士さん(36)
「まさか自分の故郷が帰れない場所になるとは思っていなかったので、ある意味、大きく人生を変えた出来事ではあったんですけど、それを前向きに捉えて進んでいきたい。
ここ(西郷村)でやりつつも(避難指示が)解除された浪江町でもなにか思いをつなぐことができればなと思っています」
(3月10日放送『news zero』より)