被爆直後を撮り続けたカメラマン…息子が父親の足跡をたどる
戦前の陸軍や海軍には、写真班や報道班などと呼ばれ、軍の活動や施設を撮影する部署がありました。軍事都市として大陸出兵の拠点となった広島にも、専属のカメラマンが配属されていました。ここで紹介するのは、そんなカメラマンの1人が遺(のこ)した被爆直後の写真と、その足跡をたどる家族の軌跡です。
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全身を焼かれ横たわる人たち…その時、爆心地の地表は、3000度から4000度に達しました。この写真が撮られたのは、広島港の沖合およそ4キロにある似島。およそ700人が暮らす小さな島です。
島を訪れた尾糠清司さん(59)。原爆投下直後、ここで写真を撮り続けた父親の足跡をたどります。
清司さん「一生懸命、昔のことを想像しようとする自分がいる。足が震える」
新型コロナウイルスの感染拡大が落ち着きを見せていた去年12月。清司さんは2年振りに帰省していました。
清司さん「おやじが一番写真撮った似島の話を聞いてたら、すごく行きたくなった」
1894年に日清戦争が起きると、広島は大陸出兵の拠点となり、「軍都」としての歩みを始めます。
似島に設けられた陸軍検疫所。帰還した兵士が伝染病に感染していないかを検査したり、消毒したりしました。
清司さんの父・政美さんは、宇品にあった陸軍船舶司令部の写真班に所属。国の内外で部隊の活動を記録していました。政美さんが被爆した時にいた司令部は、爆心地から4.6キロ。朝礼中でした。ケガはなかったといいます。
命令で似島に渡ったのは、翌日でした。薬品を備蓄していた検疫所は、臨時の野戦病院となり、運び込まれた人は、20日間でおよそ1万人に達しました。命令は、その救護の様子と被害の状況を撮影すること。生前、当時の状況を語った映像が残されていました。
尾糠政美さん(当時70)「視線が合う。ファインダーのぞいて見て向こうの目と。あの時が一番…なんとも言えなかった。こんなのを写真に写さないけないのかと思った。命令とは言ってもあまりにも残酷と思った。裸の女の人の傷痕を撮ったり。兵隊の腹巻きを取って軍医がはさみで切ってそれを写したり」
1973年、政美さんが撮影した写真の展示会が開かれました。写真の多くは占領軍に没収されましたが、それらが返還されたためです。
戦後、地元の島根県に戻り、写真館を開業した政美さん。3人の息子に恵まれました。
三男の清司さんは、東京で学習塾を経営しています。ある目的で都内の高校を訪れたのは、3年前でした。広島で何が起きたかを知ってほしい。清司さんは、父親に関わる資料60点余りを寄贈。今では貴重な教材になっています。
聖学院中学校高等学校・大川功教諭「若い人たちにこういうことがあったっていうことを目を背けないでまず見てもらいたい。東京の高校生にもぜひ知ってほしいしさらにそれを発信してもらいたい」
清司さん「1人でも多くの子どもたちに平和の大切さを伝えるものになっていってほしい」
清司さんの実家です。寄贈した資料を学ぶ若者の姿が、父親の足跡をたどることを促しました。
清司さん「名前入ってるのがおやじが撮ったもの」
父親が撮影した写真に添えられた説明文。かつて地元で開かれた写真展のパネルの数々です。
清司さん「写真が訴えるもの。特にこういう白黒写真は迫ってくるもの相当ある。父のことが書かれてるものに『見てもらえば分かるからとにかく見てくれ』と。それが全てという気もする。語るよりも写真が語ってくれる」
父親が当時のことを語ることは、ほとんどありませんでした。どんな思いでシャッターを切ったのか…。直接聞かなかったことへの後悔が、清司さんに似島を訪ねることを決意させます。
清司さん「私がこういうものを常に置いて目にしながら何も伝えない、何もしないというのはそれは違うだろと。私なりのなにか使命か任務か、できることがあるならやるべきだという気持ちが最近すごく強い」
父親が退役後に開いた写真館は今、さら地です。
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昨年12月19日、清司さんは多くの被爆者が運び込まれた似島に向かいました。
清司さん「おやじ…来たよ」
ここに降り立つのは、初めてです。
地元のボランティアガイドが案内します。
ボランティアガイド・宮﨑佳都夫さん「お父さんが撮ったのは恐らくここだと思う」
清司さん「検疫所ですねここは行きたい」
向かうのは、多くの被爆者が息を引き取った検疫所があった場所。
清司さん「検疫所自体はどこら辺にあったんですか?」
宮﨑佳都夫さん「これ自体が全部そう」
検疫所の跡地です。その痕跡は全くありません。父親はどこで撮影したのか、それさえも分かりません。
軍馬を処理していた焼却炉の一部が残っていました。原爆投下後は、亡くなった被爆者を焼きました。
清司さん「1個1個記録なんかできない、この状況じゃ。すごく想像している自分の中で。色んな見た写真とか情景を…鬼気迫るものがあったろうな」
「桟橋の辺りには遺体が無造作に置かれていた」…そんな証言に、息苦しさを覚えます。
あの日から76年余りがたちました。
清司さん「おやじのやってきたことに少し近づけたような気がする。今までは本当に断片的というか写真に写ってる場面場面で見ているが、それが点と点がつながって線になって面になる、それが頭の中でいろいろつながっている部分あるので、それをどうやって伝えていけるかという気持ち」
似島で、「申し訳ない」とつぶやきながら父親がファインダーをのぞいたあまたの被爆者…。父親の足跡を初めてたどった息子は、写真に託されたメッセージを読み解き、そして伝える思いを、新たにします。