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「マチュピチュ」発展に尽力した“日本人”

2019年7月15日 18:18
「マチュピチュ」発展に尽力した“日本人”

南米のペルーを公式訪問している秋篠宮家の長女・眞子さまは、日本時間の14日、世界遺産のマチュピチュ遺跡を訪問された。

今でこそ世界的な観光地だが、麓の村の発展には、ある日本人が大きな役割を果たしていた。その孫に当たる男性に、眞子さまはどんな言葉をかけられたのか。

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日本時間15日午前、南米ペルーのクスコ。秋篠宮家の眞子さまは市内の大聖堂を訪れ、宗教画などをご覧になった。

120年前から日本人が移住をはじめ、今ではおよそ10万人の日系人が暮らしているペルー。眞子さまは、9日からそのペルーを公式訪問されている。

日本時間の14日は、世界遺産のマチュピチュ遺跡を訪問された。

その後は、遺跡の麓にあるマチュピチュ村へ。そこで眞子さまと、緊張しながら握手を交わす男性は、ペルー生まれの日系人、野内セサル良郎さん。

ペルー生まれの日系人・野内セサル良郎さん「こちらが祖父の写真になります」

実は、彼の祖父、野内与吉さんがマチュピチュ村の初代村長とされている。

日本人移民がなぜ、南米マチュピチュで村長になったのか。そこには、この村の発展に尽力した与吉さんの人生があった。

ペルーと日本を行き来する孫、良郎さんに与吉さんのふるさと、福島県大玉村を案内してもらった。

与吉さんの孫・野内セサル良郎さん「ここは祖父の地元ですね。山の下に祖父の生家があります」

この村で、農家の二男として生まれた野内与吉さん。1917年、22歳になる年に家族の反対を押し切ってペルーに渡った。

しかし、移民を待ち受けていたのは、想像を絶する厳しい生活だった。

与吉さんの孫・野内セサル良郎さん「あまりにも過酷な労働で、賃金の不払いなどがあり、半年でやめてしまって」

与吉さんはペルーやボリビアを放浪し、人口数十人しかいなかったというマチュピチュ集落に移り住む。

そこで、当時はまだ無名だったマチュピチュ遺跡の魅力に感動し、観光地になると直感。ホテルを建て、水路やダムを整備し、水力発電所を造って村に電気を通したという。

与吉さんの孫・野内セサル良郎さん「1939年に集落の最高責任者として彼が選ばれるんですね。いわば初代村長なんですね」

村人からの信頼を得、現地で家族に囲まれながら生活を送っていた与吉さんにある転機が訪れる。

1958年、三笠宮さまがマチュピチュ遺跡を訪問された際、与吉さんの娘が花束を贈呈したという新聞記事を、日本にいた与吉さんの親族が目にした。

音信不通となっていた与吉さんは、1968年、73歳の時に帰郷を果たす。日本を出国してから50年以上がたっていた。

皇族のマチュピチュ訪問をきっかけにつながった故郷との縁。与吉さんはこの1年後、家族に見守られながら息を引き取った。

日本マチュピチュ協会の会長として、与吉さんの人生を伝える活動をしている孫の良郎さんは、今回の眞子さまの訪問に特別な思いがあるという。

与吉さんの孫・野内セサル良郎さん「(眞子さま訪問は)言葉では表せないくらいうれしい。(日本人移民を)忘れていないということが一番じゃないかと思います」

そして日本時間の14日、現地で祖父・与吉さんの人生について説明した良郎さん。

眞子さまは熱心に耳を傾け、「日本とマチュピチュの関係がますます強化されることを希望します」と話されたという。

日系人との交流を続けられている眞子さま。15日からボリビアを訪問し、22日に帰国される予定。