熊本豪雨 その時何が…濁流に覆われた人吉
日テレNEWS24「シリーズ~災害を考える~」。豪雨災害に見舞われた熊本県の被災地に、防災行動学が専門で東京大学大学院の客員教授・松尾一郎さんが入りました。支流と本流、二重の洪水に襲われた人吉市。当時、一体何が起きていたのでしょうか。
水害から1週間となった11日、はじめに向かったのは人吉市です。災害が起きた4日、市街地一帯は川からあふれた濁流に覆われました。
水害の直後、通行止めになっていた橋です。今も勢いよく流れる球磨川で松尾さんは、橋に残るあるものに注目しました。
松尾さん「流木が上流から流れてきて、欄干に当たって挟まれている。欄干より高い水の流れだったというのが読み取れますね。高いか、ぎりぎりですよ」「階段がありますよね。隣の屋根瓦の家は基礎部分含めてあらわれている。水もそこまで来たのだということがわかる。堤防より高い所に水位があった、そのことで氾濫したということ」
ただ、街を襲ったのは堤防を越えてきた水だけではありませんでした。市街地を流れる支流の山田川です。
松尾さん「樋門がありますよね、樋門の青い所に流木が引っかかっています。(水が来たのは)あの高さよりさらに高い所なんですよ」「本川(球磨川)も水位が高かったし、支流(山田川)についても水が流れ込む。流れきれなかった部分が堰上げ、バックウオーターで氾濫をもたらした」
85歳の深水昇さん。氾濫が起きる前に離れた息子の家に避難したといいます。
深水さん「(息子が)朝6時に迎えに来たんですよ、危ないからって。それですぐ裏の山田川見たら、橋のぎりぎりだった。時間の問題だということで、銀行通帳だけ持ってすぐ(避難した)」
松尾さん「昭和40年の(水害)は経験している?」
深水さん「しています」
松尾さん「今回どうですか」
深水さん「あの時の経験の倍以上ですね。もう問題にならないです。これはひどいです」
この地域は1965年にも洪水に襲われました。1300近い家が流失し、1万3000戸以上の建物が浸水する被害を受けています。当時の水害を上回ると証言する人は他にも…。球磨川沿いに建つ旅館「あゆの里」の有村隆徳さんです。
水が入ってきたのは午前6時半ごろ。支流からあふれた水で建物の1階部分がつかりはじめたといいます。さらにその後、反対側から球磨川の水が流れ込みました。従業員や宿泊客は全員無事だったものの、建物の被害は計り知れません。
有村さん「(1965年の水害)その時よりもひどいです。昭和40年(1965年)の7月3日から堤防もできましたし、いろいろできたんです。今度の水は雨の降り方が異常」
松尾さん「昭和40年(1965年)7月の水害、それと雨の量も違っていたし、全然違うということ。確実に今回の水害はそれ以上のものであったろうと考えます」