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【関東大震災から100年】建物倒壊、火災旋風、津波…マルチハザードだった大災害とは

2023年8月31日 8:00
【関東大震災から100年】建物倒壊、火災旋風、津波…マルチハザードだった大災害とは
関東大震災時の日本橋周辺(写真:AP/アフロ)

ことし9月1日は「関東大震災」から100年です。地震後の火災でとても多くの人が亡くなったという話を聞いたのを覚えている方が多いのではないでしょうか。実はそれは被害のほんの一面で、関東大震災は地震で起きるあらゆる被害が一緒に発生したマルチハザードの大災害でした。

37万棟が倒壊・焼失し、死者・行方不明者が約10万5000人にも及んだ関東大震災は震源が東京ではなく、神奈川県の西部を震源とする地震でした。マグニチュードは7.9と推定され、相模トラフのプレート境界で起きた巨大地震です。

■大きな揺れで建物倒壊が相次ぐ 全壊は約11万棟に

巨大地震の大きな揺れによって建物は次々に倒れ、下敷きになるなどして亡くなった人もたくさんいました。震源となった神奈川県では倒壊家屋が約6万3000棟にも及び、約5800人もの人が死亡。隣接する東京でも神奈川よりは少ないものの約2万4000棟の建物が倒壊し約3500人が死亡しました。

神奈川県から千葉県、山梨県など各地で大規模ながけ崩れや土石流、さらに地滑りといった土砂災害も多く発生し深刻な被害となりました。横浜市や鎌倉町(当時)、横須賀市の人口密集地帯では、家屋の倒壊や火災の被害に加え、民家の裏の急斜面のがけ崩れによって多くの民家が土砂に押しつぶされたということです。小田原市根府川・米神付近では地すべりとみられる土砂崩落が発生し、多くの民家が埋没し数百人が死亡。JR東海道線(当時・熱海線)の根府川駅にも地すべりが襲い、ちょうど駅にいた列車も一緒に海中にまで押し流されてしまいました(列車の死者100人以上)。このほか、箱根の温泉街でも土砂災害の被害が大きかったほか、谷峨駅付近では大規模な土石流が発生するなど、各地で被害が発生しました。

また、この地震は、東日本大震災や南海トラフと同じように、相模トラフのプレートの境界で発生した地震だったため、津波も発生しました。伊豆半島、伊豆大島、三浦半島、房総半島の海岸に津波が押し寄せ、熱海と伊豆大島には高さ12mもの津波が、伊豆半島の伊東や千葉県館山市付近にも最大9mの津波が襲いました。伊東市の寺の階段には、関東大震災の時の津波の高さと1854年の安政東海地震の際の津波の到達点を示す碑が設置されていて、関東大震災の津波の高さは安政東海地震の時より高かったことがわかります。伊東町(当時)では、海岸沿いの平地の集落はほとんどが流失、多くの死者を出しました。

鎌倉の被害もひどく、鎌倉町(当時)の記録では当時の約4200戸の家屋のうち地震・津波・火災の被害によって軽微な被害で済んだのはわずか600戸ほどだったといいます。記録によると津波に流されたのは30戸で59人が死亡。こうした被害が熱海から伊豆半島、さらには千葉県にも及んでいます。伊豆半島の下田などでは1854年の安政東海地震の津波によって多くの家が流失した経験などが生かされ、地震直後に高台に避難して人的被害が最小限に食い止められた地域もあったということです。

■液状化の被害も発生

液状化による被害も広範囲に及びました。関東の東京都、埼玉県、千葉県、茨城県、神奈川県、さらには山梨県の甲府盆地でも液状化が発生しました。埋め立て地で地割れが起きて泥水が噴出。建物の基礎が地中にめり込んでしまったうえ、砂が噴き出してきたという報告が各地で確認されています。また、東武線の荒川放水路橋梁では、橋台が約120センチ、橋脚が約60センチ沈下したということです。茅ヶ崎市では、田んぼの中から鎌倉時代の橋脚とみられる木の柱が浮き上がってきたという報告もあります。

■深刻な火災による被害 火災旋風が避難者を巻き込む

関東大震災の被害で特筆すべきが火災による被害です。死者10万5000人あまりのうち、火災で亡くなったのが9万1781人にも及びます。特に東京市(当時:現在の都心の8区付近)と横浜市での火災の被害が顕著でした。関東大震災が発生したのはちょうどお昼前で火を使って炊事していた家庭が多く、出火の原因の多くが炊事用の火気でした。東京市全体では134件の火災が発生し、そのうち40%ほどは住民らによる初期消火で消火することができたものの、消せなかった火災がどんどん延焼していったのです。ちょうどこの時には新潟付近に台風があって、関東でも強風が吹いていたため火は密集して建つ木造住宅を燃やし尽くしていきました。

激震となった横浜市では289件の火災が発生。2万5324棟が焼失し、犠牲者も2万4646人に及びました。東京市では木造住宅につぎつぎと燃え広がり、16万6191棟が焼失、犠牲者は6万6521人に達しました。燃え広がったエリアは、東京市の市域の実に4割にも達しています。

特に被害が集中したのは、多くの人が地震の揺れで避難して逃げ込んできた両国の陸軍被服廠跡の広場でした。現在の被服廠跡の一部は横網公園に整備され、公園内には東京都の慰霊堂が設置されているほか、復興記念館もあり関東大震災の様子を伝える施設となっています。この被服廠跡の10.4ヘクタールほどの広場に約4万人もの人たちが家財道具を持って避難して集まっていたところに火災が襲ってきました。この被服廠跡では折からの強風によって火災旋風が発生。人々が持ち寄っていた家財道具が延焼の火種となり大きな渦となって巨大な火柱が一面を燃やしつくしたのです。結局この限られた被服廠跡の敷地で約3万8000人もの人が犠牲となりました。

■2週間後には台風が直撃 土砂崩れなどが多発

地震の2週間後、9月12日から15日には台風が通過し集中豪雨が続きました。4日間の連続雨量は200ミリから300ミリに達し、特に丹沢地区で200ミリを超える雨量となり、伊勢原市大山では地震によって崩落を起こしてたまっていた土砂が一気に土石流として流れ下り、140戸もの民家を押し流すなど被害を拡大させる結果となりました。

このように、関東大震災では激しい揺れによる建物の倒壊、がけ崩れや土石流、地滑りといった土砂災害、液状化による被害、さらに津波も発生、その上に火災、2週間後には被災地に台風も襲い再び被害が発生するという、まさにマルチハザードの災害だったのです。