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【沖縄戦と首里城】大嶺直子さん証言 後編

2020年8月25日 18:13
【沖縄戦と首里城】大嶺直子さん証言 後編

去年10月、火災に見舞われた沖縄の首里城。75年前の沖縄戦でも焼失し、再建まで半世紀近くかかったこともあり、去年の火災は沖縄の人々に大きな衝撃を与えた。

その地下に巨大な地下壕(ごう)が存在する。この壕は、沖縄戦で、アメリカ軍と対峙(たいじ)した旧日本軍の第32軍が、一時、司令部を置いた場所で、一帯は激戦で焼け野原となり首里城も焼失した。

戦後は、崩落の危険があることなどから立ち入りが禁止されていましたが、去年10月の首里城火災をきっかけに、戦争の記憶を次世代に伝える場所として壕の保存と公開を求める声がいまあがっている。

75年前、いったい何があったのか。私たちは首里城の沖縄戦を知る方々から数々の証言を伺った。戦争を知らない世代にいま伝えたい、知られざる地下壕に秘められた戦争の歴史とは。


    ◇


大嶺直子さん、94歳。
沖縄戦がはじまる1年前、沖縄県立第二高等女学校を卒業し、校長の推薦で第32軍司令部に事務員として従軍。
司令部の初期段階からを知り、第32軍を率いた牛島司令官や参謀など軍のトップの様子を知る、数少ない証言者。

(前編から続く)

■首里からの撤退看護隊として南部へ


追い詰められる司令部は、南部への撤退前に、女子たちを看護隊にする。大嶺さんは司令部から離れ、女子4人で南部へ向かうことになる。看護隊として目の当たりにした戦場は壮絶なものだったーー。

Qいつごろ首里から撤退したか覚えているか?

【大嶺直子さん】
はっきりは覚えていない。あの頃はね、もう時間の感覚とか全然そういうことは分かりません。南部に下がったときに、一晩ゆっくりしたことがあるんですよ。ここは別天地だなと思ったくらいゆったりした気持ちで一晩過ごした。首里に集中して攻撃でしょ。まだ(南部の)摩文仁まで降りてないから、軍が。戦争を感じないくらいの静けさを感じましたね。

それからもう野戦病院にみんな(行った)。首里から撤退する前に女子はみんな看護隊に行かされたんです。4人くらいであっちこっちの壕にできていた野戦病院に入って。

壕の中での話をすればきりがないんですけど…すごかったです。土砂降りでしたから、壕の上の方に破傷風菌の人を隔離していた。下におりてきたら、またたくさんの傷病兵がいた。私たちにお水をくれとか、お世話をしたんですよ、おしっこの世話とか。蛸壺という1人だけが入れる大きさの地面に掘った穴に入って、戦車がきたら自分と自爆する。そういう役目の人や、家族の写真を見せてくれた人…本当に今でも思い出す。


    ◇

■自決を決意 大嶺さんを生き延びさせた参謀の言葉

しかし、ついに看護隊も解散となる。自決を意識するようになった大嶺さんたちは、最期の場所を求めて、再び司令部のもとを目指すーー。

【大嶺直子さん】
(仲間)みんなで集まって、じゃあ自決するなら、司令部が摩文仁に戻ってきてるから、そこに行こうって。みんなでそろって司令官が入ってた壕、参謀とか、みんな首脳部が入っていた壕に、あいさつに行ったんですよ。

暗いから見えないんですけど「帰ってきたのか」って手を差し伸べてくれて、そのあったかい手触り、大きい手のぬくもりがね、今にも伝わってくるんですけど…。


    ◇

司令官が自決するのと同じころ、大嶺さんの直属だった、木村参謀は、「斬り込み」と呼ばれる玉砕覚悟の最期の抵抗に出発する。その直前、大嶺さんにある言葉を残したーー。

【大嶺直子さん】
参謀たちはそれぞれ、師範学校の学徒隊を道案内に連れて斬り込みに分かれていったんです。
(木村参謀は)自分が斬り込みに行く時に「沖縄はまた春が巡ってくる。いま死ぬのはたやすいけど、死んではいけない、生き延びなさい」そういう言葉を伝令に渡して(伝えてくれた)。

それまでは、手りゅう弾を持って、青酸カリを持って、死ぬつもりでしたのに、そういう言葉をいただいて、もうこれ“死んではいけないんだ!”って、ほっぺた叩かれたみたいな思いで。崖っぷちまで行きましたけど。
それから9月まで3か月間また壕の中にいた。壕って言ったって岩の間。


    ◇

木村参謀の言葉で、自決を思いとどまり、生き残った大嶺さん。首里での決戦を振り返り、いま思うことはーー。


■75年前を振り返って

【大嶺直子さん】
不思議ですよね。なぜあそこか。なぜ首里城か。それは私どもには思いも及びませんけど。首里城というのは沖縄の人にとっての唯一の象徴ですから。
そこに首里城があって、そういう大事なところの下に司令部壕があるということ、今から考えれば、そんな理不尽なこと無いと思いますけど。(その時)はそこまで考える(ことは無かった)まだ子どもでした。まだ18歳ですからね。


    ◇

かつて自分が戦争に直面した首里城下の「第32軍司令部壕」の保存についてはーー。

【大嶺直子さん】
私としてはやっぱり向こうに一緒につとめてた軍司令部の一員でしたから……これはでも、私が言うべきことじゃ無いと思う。私自身は過去は過去で、それでいいんじゃないかと。