【解説】「気象記念日」 最初の天気予報は139年前… “26文字”で全国を 今は防災情報として…
大型の台風2号が宮古島に接近し、その後の進路も非常に気になります。一方、6月1日は「気象記念日」だということで、天気予報の歴史を振り返ります。
●いつから観測
●最初の天気図
●「177」今も活躍
以上のポイントを中心に詳しく解説します。
明治8年(1875年)の6月1日、現在の東京・港区の虎ノ門2丁目あたりに「東京気象台」が設置され、気象と地震の観測が始まりました。そのため、6月1日は「気象記念日」です。
木造の建物で、やぐらの上には風速計と風向計が設置されていました。施設の中央に設置された百葉箱では、気温を観測していました。気温は日陰で観測するという決まりがあるのです。
当時は、イギリス人技官が1人で気象に加え地震も観測していました。地震発生となると、蔵の中の地震計まで飛んで行って観測・記録したといいます。大変、忙しかったわけです。
その後、気象台は各地を転々とし、今は虎ノ門3丁目にあります。つまり、最初の場所のすぐ隣に戻ったということになります。
明治17年(1884年)の同じく6月1日、日本で初めて天気予報が発表されました。当時の天気図には、高気圧を表しているとみられる「HIGH」、低気圧を表しているとみられる「LOW」と書いてあるのが確認できます。天気図を作った人がドイツ人だったので、英語なのです。
「760」といった気圧とみられる数字も書かれていますが、ヘクトパスカルだとすると低すぎます。実は、ヘクトパスカル以前の「ミリバール」のさらに前に使われていた「ミリメートルhg」という水銀柱の高さの単位ではないかと考えられます。
日本初の天気予報の内容は、「全国一般 風ノ向キハ定リナシ 天気ハ変リ易シ 但シ雨天勝チ」というものです。このような予報が全国に向け出されました。地域ごとの予報はまだ、ありませんでした。
また、天気予報の内容は当時、東京の交番に張り出されていました。東京の交番だけなので、ほかの地域の人は見られませんでした。
その後、新聞やラジオと伝え方はどんどん変わっていきました。
テレビ放送が始まった直後の1950年代、日本テレビが放送した天気予報の映像が残っています。日本列島の地図の前でアナウンサーが指示棒を使い伝えるという、今とほぼ同じスタイルでした。
1959年には、暖冬を解説するためアニメーションが用いられていました。当時の映像では、「南の風」と書かれた矢印が地図の上方向へ動き、その上からは「北の風」と書かれた矢印が下りてきます。そして、2つの矢印の間には「気圧が低くなる」と書かれています。
この低気圧に向かって南から暖かい空気が入ってくるので「暖冬になる」という解説だったのではないでしょうか。
1955年から1997年までは、日本気象協会の担当者が協会内のブースで音声を吹き込んでいました。その録音を電話で流していたわけです。
インターネットが普及した今はだんだんと利用者が減っています。ただ、パソコン、スマートフォンの操作が苦手な人、視覚障害がある人にとっては使いやすいものです。また、災害時にも利用できるということで、大切な情報源であることに変わりはありません。
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天気予報というと、「晴れるの? 曇るの?」「洗濯干せるの?」「傘いるの?」といったことがやはり気になりがちですが、時代が進むとともに防災情報としての意味合いが強くなっています。
その分、複雑になっているので、メディアの側としてもより一層、伝え方の研究が必要です。また、情報を受け取る皆さんも「じぶんごと」と思ってもらい、気象情報の内容を早く理解して、避難行動へ結びつけることが大切だと思います。
(2023年6月1日午後4時半ごろ放送 news every. 「知りたいッ!」より)