桶狭間の戦い 突風が勝敗に影響?
今から461年前の戦国時代。尾張・三河の国境付近(現在の愛知県)で、織田軍と今川軍が激突しました。歴史の教科書には「桶狭間の戦い」と記されています。尾張を統一したばかりの織田信長(当時27)が勝利し、駿河・遠江の有力大名であった今川義元(当時41)が敗死しました。戦いの後、松平元康(のちの徳川家康)は今川家から独立しました。戦国時代の歴史の転換点であったとも考えられる合戦当日の出来事を、史料を参考にしながら、気象状況を分析してみます。
(日本テレビ報道局・気象予報士平井史生)
■合戦当日の気象状況を分析
桶狭間での武力衝突は、永禄三年五月十九日に起こっています。西暦では1560年6月22日(グレゴリオ歴)になります。現在の季節で考えると、梅雨の前半にあたります。駿府(静岡)を出発した今川軍が、大井川や天竜川の渡河に苦労した様子はないので、まだ、まとまった雨が降っていなかったと考えられます。
合戦当日の朝は、晴れていたのか曇っていたのかわかりませんが、熱田神宮付近から、約7km離れた砦から立ち上る煙が見えているので、風は穏やかで、見通しはよかったものと思われます。今川義元は、二万五千とも四万五千とも言われる大軍を率い「おけはざま山」に布陣します。少数精鋭(総勢二千とも)の織田信長が、おけはざま山の尾根の麓に進軍した時、雨が降り出しました。
信長の家臣太田牛一が記した『信長公記』には次のようにあります。
「俄かに急雨、石氷を投げ打つ様に」
突然降り出した雨は小石を投げ打つような大粒だったようです。氷という表現を強く意識すると「雹(ひょう)」が降ったのかもしれません。
■今川軍尾張に侵入
また、この雨は強風を伴っていました。
「敵の輔に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。」
雨粒は敵の今川軍の輔(顔)に打ち付けます。つまりは向かい風です。
一方、身方(味方)の織田軍にとっては、後ろに雨が降りかかっているので追い風になります。そして、風向きは西風です。楠の木の巨木が東に倒れるほどでした。
「沓掛の到下の松の本に、二かい三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。」
■突風の風速を推定
竜巻などの突風被害が発生した時に、被害の状況から風速を推定する方法があります。気象庁のガイドラインによると、「広葉樹」について、「根返り。幹に亀裂や折れがなく、根系が浮き上がって倒伏又は傾斜」するような場合は、3秒間平均風速45m/s(代表値)に相当します。ゴルフ場の支柱が傾いたり、大型バスを横滑りさせるような暴風です。
活発な積乱雲は、大粒の雨を降らせます。雹が降るときもあります。雨や雹は、落下するうちに一部が蒸発し、周囲の空気を冷やします。冷えて重くなった空気は、下降気流となって、地面に吹きかけます。地面にぶつかった下降流が、地表に沿って突風になったものを「ダウンバースト」と呼んでいます。
信長軍の後方で積乱雲による下降気流が生じ、局地的な突風が発生したものと考えられないでしょうか?その西風が信長軍の進撃を助けたのでしょう。
歴史マンガなどで、今川義元が油断していた表現が描かれているものもありますが、今川義元はしっかりと防衛線を構築していたようです。それは、おけはざま山の戌亥(北西)の方向に兵を配置していることからわかります。このことは、織田軍が今川本陣の北西側に位置していたことを意味していて、前述の風向きともほぼ一致します。今川軍の防衛線がいとも簡単に破られてしまったのは、織田軍にとって追い風となった突風が原因と考えてみることもできそうです。
■雨が止んで信長軍は義元に殺到
織田軍が今川軍の前衛部隊を突破してまもなく、雨は止み視界が開けました。義元の本陣は大混乱にあったようで、吹き荒れた突風の影響か、武器や旗指物、義元の塗輿などが散乱していました。信長からは「すわ、かかれ」と突撃命令が発せられます。
大将義元を取り囲んでいた300騎は、やがて50騎ほどになり、信長自身も馬を下りて奮戦します。最後は、信長の家臣毛利新介に義元は討ち取られてしまいました。
たった一日の戦いでしたが、織田信長は尾張の防衛に成功しました。一方で、義元を失った今川家から松平元康(のちの徳川家康)が独立することになります。桶狭間で突風が吹かなかったら、歴史の教科書の記述が少し違ったものになったかもしれません。
この記事は、太田牛一の『信長記(信長公記)』を気象学の立場から読み解いたものです。歴史学では、様々な文献を比較検討します。桶狭間の戦いについても、参考にする資料によって、様々な説があります。
【参考文献・資料】桑田忠親校注『改訂信長公記』新人物往来社
気象庁「日本版改良藤田スケールに関するガイドライン」