羽生結弦 震災10年、スケート続ける意義
24時間テレビでスペシャルアイスショーを披露した羽生結弦選手。東日本大震災から10年がたち、新型コロナウイルスがまん延する中、羽生選手はスケートを続ける意義を見つめ直しています。
■2011年3月11日、ふるさとの町が一変した日
今月、宮城県仙台市の『アイスリンク仙台』で、羽生結弦選手(26)は24時間テレビの収録に臨みました。実はこのリンク、10年前、東日本大震災が起きたその瞬間に羽生選手がいた場所です。
羽生結弦選手
「中央のほうに、あそこの赤い線のあたりにいて、『怖い怖い』と言いながら揺られていました。『やばいな』って思った記憶があります」
10年前の、あの日。2011年3月11日、ふるさとの町は一変しました。
羽生結弦選手
「自分たちの住んでいる街が崩壊していく。言葉にできないほどの無力さ、悔しさ、そういうものを感じた」
当時16歳だった羽生選手は、近くの学校で家族と避難生活を送りました。自宅はのちに全壊と判定されました。
羽生結弦選手
「もうこれ以上ご飯が食べられないんじゃないか。本当にまた同じようにみんな住めるのかなって。不安でした。本当、不安でした」
ライフラインも途絶え、生きるだけで精いっぱいの日々。
羽生結弦選手
「やっぱりスケートやりたいなって思いはありました。だけど、それを口から出せるか、自分の口から出せるかって言ったら絶対出せなかった。自分だけ好きなことばっかりやっちゃダメだ」
■感じた“負い目”、そして「金メダルが誰かの笑顔に…」
しかし、当時既に将来を期待されていた羽生選手は、別の場所で練習を続けることができました。でも──
羽生結弦選手
「被災地にまだいる人たちに対して、本当に申し訳ないなって思いました。自分のスケートのために自分だけが逃れていて本当にいいのかなって」
スケートをしてもいいのか。そんな負い目がありました。だからこそ、震災から3年後のソチオリンピックで金メダルを取った直後も、「(金メダルが)復興に直接手助けになるわけではない。何もできていないんだなっていう感じもちょっとします」と、口にしたのは無力感という言葉でした。
その後、複雑な思いを抱えながら、宮城県石巻市へ。
羽生結弦選手(2014年6月)
「行っちゃダメかなって思っていた。僕が行って何が変わるかってすごく考えていて」
津波で大きな被害を受けた湊中学校を訪問しました。すると、迎えてくれたのは、生徒たちの笑顔。無力だと思っていた金メダルには人々を笑顔にする力があったのです。
羽生結弦選手
「金メダルが誰かの笑顔のためになる。誰かにとって何かの力になる。自分がいま滑っていていいんだな、(スケートをする)幸せを感じていいと思えるようになった」
震災から10年。スケートと共に、前へ。
■コロナ禍で迎えた震災10年、届けたい想い
そして今月、24時間テレビのアイスショー当日、羽生選手自身が選んだ2つのプログラムを滑りました。今回、特別に衣装も新調。1曲目は、震災後、初めて観客の前で滑った「ホワイト・レジェンド」です。
震災直後、ガレキなど爪痕が強く残る世界から始まり、紆余曲折もあった10年間の想いを込めます。
羽生結弦選手
「徐々に徐々に前に向かって進んだり、逆にまた思い出してつらくなったり、でも、また進む」
これまで歩んできた10年の道のりと共に、今、力強く生きていきたい。そんな想いを込めました。
そして、2曲目は「花になれ」。コロナ禍で迎えた震災10年、こんな時代だからこそ伝えたい自らの想いを歌詞に重ねて届けます。
羽生結弦選手
「少しでも色んな方々が僕の演技を見て、前を向くきっかけになったらと思います。苦しみだけじゃなくて、幸せも、全てに寄り添っていけるような演技をしていけたらいいなって思います」
これからも、スケートを通して想いを届けます。