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昭和天皇とマッカーサー(下)

2021年9月7日 10:32
昭和天皇とマッカーサー(下)

76年前の9月に行われた昭和天皇と連合国最高司令官のマッカーサー元帥との会見にはナゾがあります。「私が全責任を負う」と昭和天皇が発言したかどうかです。元帥が後に語り、「回想記」でも明らかにしていますが、通訳の記録にはなく、昭和天皇も語らなかったからです。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)


【皇室コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第11回<昭和天皇とマッカーサー下>


■「私が全責任を負う」 10年後に明らかにされた発言

初めての会見から10年がたった1955(昭和30)年9月。元帥は重光葵(まもる)外相に昭和天皇の発言を語ります。「私は日本の戦争遂行に伴ういかなることにも、また事件にも全責任をとります」。重光外相は読売新聞に手記を寄せて伝えています。「私はこれを聞いて興奮の余り陛下にキスしようとした位です」。元帥の興奮ぶりにも驚きます。

9年後の1964(昭和39)年1月。朝日新聞が「マッカーサー回想記」を連載し、その20回目で重光外相に話した昭和天皇とのやり取りが語られます。「私は、国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためおたずねした」。元帥が84年の生涯を閉じたのは3か月後の4月5日。後世に残したかったのでしょう。

通訳を務めた奥村勝蔵・御用掛の残した記録にこのやり取りがありません。発言はあったのかなかったのか。『昭和天皇実録』を見ると、会見の模様を記述し、「なお」「また」という接続詞を冠して重光外相の手記と回想記の内容を紹介しています。事実には踏み込まず、両論併記に留めているのです。

■「約束を守らなければ」 語らなかった昭和天皇

当時の宮内庁記者たちは昭和天皇に繰り返し質問し、「ナゾ」に迫ろうとしています。しかし、昭和天皇は話しませんでした。「秘密で話したことですから、私の口からはいえません」(昭和51年11月)、「どこにもいわないという約束を交わしたことですから、男子の一言のごとき(笑い)ことは、守らなければならないと思います」(昭和52年8月)。昭和天皇は約束を守り続けました。

上皇さまの家庭教師だったアメリカ人のヴァイニング夫人も昭和天皇の発言を元帥から聞いていました。「閣下がわたしをどう扱おうとそれは構わない。わたしはそれを甘んじて受ける。絞首刑にしてもかまわない。ただ私は戦争を望んだことは一度もなかった」。後に高等科1年の上皇さまを元帥に会わせる夫人は、『天皇とわたし』(山本書店)に記しています。

記録になぜないのか。そこには議論があって真相はわかりませんが、訪問に同行していた筧素彦・元宮内省総務課長の見方が参考になります。「あの当時は、世界中が陛下の責任追及について極めてうるさかったさなかであって、万々が一これが外部に漏れれば、陛下の責任追及、戦犯などという問題が燃え上がる惧(おそ)れもあるので、お手許用のメモは兎も角、簡単に公開あるいは披見されるおそれのある記録には載せるわけにはいかなかったであろう」(『今上陛下と母宮貞明皇后』)。

そのメモは昭和天皇の手元にも届けられていました。「通常の文書は、御覧になれば、私のもとへお下げになるのだが、この時の文書だけは陛下は自ら御手元に留められたようで、私のもとへは返ってこなかった」。藤田侍従長の『侍従長の回想』(中公文庫)に見えるエピソードです。

1951(昭和26)年4月11日。元帥は朝鮮戦争の指揮を巡って解任されます。帰国前日の15日、昭和天皇は一私人となった元帥に別れを告げるために公邸を訪ねます。滞在5年8か月。11回目となる最後の会見でした。戦後20年の夏、昭和天皇は戦後の印象深い出来事について聞かれて元帥の名前を挙げ、「一度約束したことは必ず守る信義の厚い人だ。元帥との会見は今なお思い出深い」と話しています。

■会見から30年後の“邂逅”

11回に及ぶ会見には事件もありました。1947(昭和22)年5月の4回目。アメリカが日本の防衛を保障することを約束したというやり取りがメディアに漏れ、元帥は否定声明を出しました。この時、通訳の奥村掛用掛は漏洩を疑われて即日罷免となります。

『入江相政日記』によると、入江侍従長は1975(昭和50)年9月10日、奥村御用掛が死の床にあって事件を気にしていることを昭和天皇の耳に入れ、「奥村には全然罪はない。白洲がすべて悪い」という言葉を聞いて伝えています。白洲とは、吉田茂首相の側近として知られる白洲次郎です。このエピソードは『昭和天皇実録』にも「奥村に罪はない旨を述べられる」と書かれています。淡々と事実を記す『実録』にあってぬくもりが感じられる記述です。

半月後の9月26日。奥村御用掛は72歳で亡くなりました。昭和天皇が香淳皇后と初のアメリカ訪問に旅立ったのはその4日後です。最初に滞在したのは東部ウィリアムズバーグ。元帥が眠るノーフォークから60キロと近く、昭和天皇は総領事を遣わして墓前に花輪を供え、ニューヨークでジーン夫人と会っています。

実は奥村御用掛は、戦前、ワシントンの日本大使館で開戦通告の翻訳作業に関わった一等書記官でした。その奥村御用掛の死と、直後の昭和天皇のアメリカ訪問、元帥の墓への献花、そしてジーン夫人との面会。偶然とはいえ会見から30年の邂逅(かいこう)に特別な縁を感じないではいられません。
(終)

※冒頭の動画は「戦後30年初めてアメリカ本土に降り立った昭和天皇」1975(昭和50)年9月30日 アメリカ・バージニア州

※資料の旧仮名づかいは今の表記に改め、一部を略し、句点を補いました。


【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)
日本テレビ客員解説員。元読売新聞編集委員。皇室ジャーナリスト。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。