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パラ“おっちゃんを速く”が生んだ技術・1

2021年10月16日 20:44
パラ“おっちゃんを速く”が生んだ技術・1

■記憶に残るプロジェクト…「金メダルだけが目的ではない」

その場所は、車いすのような福祉機器を作っているようには見えなかった。出窓の棚には映画のキャラクターがずらりと飾られた、遊び心がくすぐられる空間。その中で杉原行里さん(39)は目を輝かせながら 『あの時の伊藤さんを覚えてるだろ!』が、これから僕らチームのマジカルワードになる」と語る。杉原さんは、自動車レース「F1」の技術を活用して、競技用の車いすの開発に携わった1人だ。

「今回のパラリンピック、結果として見ると『 “記録”は伊藤さんのパーソナルベストだった。でも、“記憶”には残る僕たちだったな』と思いました。そして伊藤さんから、とてつもない宿題を僕らチームはもらったなという感覚があるんです」

杉原さんが「伊藤さん」と呼ぶのは、東京パラリンピック陸上男子400メートル(車いすT53)に出場した伊藤智也選手のこと。杉原さんは医療福祉機器や最先端ロボットの開発・製造を手かげる会社の代表で、“車いすの鉄人”と呼ばれる伊藤選手が使用した競技用車いす「車いすレーサー」の開発プロジェクトリーダーを務めた。杉原さんの会社は元々、モータースポーツ事業などを手がけ 、F1チームのスクーデリア・アルファタウリ・ホンダのオフィシャルパートナーとして携わっている。

「58歳のおじさん(伊藤選手)が若者たちに担ぎ上げられて、僕らの思いに賛同してくれたんです」と杉原さんは笑顔で話す。

「伊藤さんは60歳近いのに若い子たちからすごく愛されていて、しかも、その輪の中心に入っているんです。その伊藤さんが『俺はお前らの最高のエンジンになったる。だから他はもう全部信じて任せた!』と言ってくれた。一緒になって部活のようにケンカしたり涙を流したりしましたね」

伊藤選手は1998年、34歳のときに中枢神経系の難病「多発性硬化症」を発症し、車いす生活を余儀なくされた。翌年、間違えて競技用の車いす「車いすレーサー」を注文したのをきっかけに陸上競技を開始。パラリンピックでは2008年北京大会で金メダル2つ、2012年ロンドン大会で銀メダル3つを獲得。その後、競技からの引退を表明していた。

杉原さんとの出会いは2016年、伊藤選手が引退を宣言した4年後のこと。F1での経験があった杉原さんは「もしも世界一速い車いすレーサーを作ったら、競技に復帰しますか…?」と尋ねた。この一言をきっかけに、翌年から手探りでの「車いすレーサー開発プロジェクト」が始まった。タッグを組んだ一番の理由は「気が合いそうだったから」、そして「思い切ケンカができそうだったから」だという。

「『おっちゃん、やろうぜ』って話したときに決めたのは、金メダルだけが目的ではないということ。実はF1で培ったテクノロジーは、一般社会に多く落とし込まれているんです。車のステアリングの横にあるパドルシフトも、『より速く走るためには、手で操作した方がいいよね』と開発されたもので、F1に導入された後にそのテクノロジーを応用して、足の不自由な人が運転できる車を作れるようになったんです」

「だから僕らもパラリンピックで、そういったテクノロジーの応用をやりたかったんです。伊藤さんのマシン開発を行う過程で生まれたテクノロジーが、いかに一般社会でも使われて、社会実装されていくか…ここに僕らの一番の意義があると思っています。そうじゃないと、伊藤さんは復帰しなかったと思います」

■「当たり前を変えていく」…仮説から見えた“社会課題”
車いすレーサーの開発にあたって、杉原さんは「人間は座っているポジションによって、発揮できるパフォーマンスが大きく違う」という仮説を立てた。その仮説を実証するには、伊藤選手がもつ経験則が必要不可欠だったという。

「戦略的な話をすると、皆さんを驚かせるのに一番必要なことは、“みなさんの当たり前を変えていくこと”だと思ったんです。伊藤さんはロンドン大会で銀メダルをとって引退して、さらに数年たっている。普通に考えたら加齢によって人間は衰えていくので、“おっちゃんがタイム出せるわけねぇだろ”って、十中八九、思われるだろうな、と。そのギャップを覆す方が、きっとみんな驚く…そう思ったんです」

プロジェクトで約1年半かけて行ったのは、「感覚の数値化」。 伊藤選手の感覚や感触を理解するためには、共通の言語を手に入れる必要があり、その手法として、感覚や感触を「数値」に落とし込むことで可視化した。 例えば、シートのポジション、肩甲骨の動き、重心の位置、グローブの入る角度などだ。伊藤選手が伝えたい内容や、プロジェクトが試したい内容を数値化することで、お互いの理解度がより高まる。

伊藤選手が車いすで走る際の重心やシートの位置などを微妙に変えながら数万通りのデータをとり、最高のパフォーマンスが発揮できるシートポジションを導くシミュレーターを独自で開発した。さらに、シミュレーターが弾き出した3つの最適なシートポジションを再現できる試作モデルを作り、改めて伊藤選手の経験則と感覚も掛け合わせて、大会で使う車いすレーサーをゼロから作り上げていった。

杉原さんは当時の途方もない実験の数々を思い出す。「本当はゼロから作りたくなかったんですよね。でも、そういうシミュレーターが世の中になかったんです」

だが、こうした「車いすの改良ができるシミュレーター」がないこと自体が、いまの社会課題の一部を物語っているのかもしれないとも考え直した。現状では、車いすに乗っている人も医療従事者も、経験に基づいた改良アイデアを試したり、実証したりしにくいということが社会課題だと気づいたのだ。

「一番苦労したことは『新しいアプローチを、新しい手法でやる』という難しさでした。ひとつひとつ仮説を試していくトライ&エラーの作業を、ずっとやってきたんです。でも、あくまでも仮説で、正しい方向に進んでいるか誰も正解がわからない中での開発だったので、お互いに信じあうことがとても大事だったんです。実験を続けるうちに徐々に『…これ、合ってるんじゃない!?』となってくると、みんなテンション上がってくるんですよ。そして伊藤さんも、諦めずに信じてくれました」

(写真:東京パラリンピックのレース翌日、1年半ぶりに再開した伊藤選手と杉原さん)