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「ここでは仲間と仕事を失いたくない」 阪神・淡路大震災から30年 何もできなかった憤りを糧に…被災の教訓つなぐ三重の工場

2025年1月20日 17:03
「ここでは仲間と仕事を失いたくない」 阪神・淡路大震災から30年 何もできなかった憤りを糧に…被災の教訓つなぐ三重の工場
万協製薬の松浦社長(左)
整理整頓された三重県多気町のとある工場には、実はいろいろな仕掛けがあるといいます。社長が30年前から抱える強い思いによって実現したという、その仕掛けを取材してきました。

蛍光テープに託した社長の思い…

塗り薬などの医薬品を作る、三重県多気町にある万協製薬の工場。床に引かれた蛍光テープは真っ暗になると光り、停電時に出口への道を示します。

貼られたきっかけは30年前、この会社が直面した、あの震災でした。

1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災。死者は6434人、負傷者は4万3792人にのぼりました。

当時、松浦さんの会社があった神戸市長田区は、建物の倒壊や火災の被害が最も大きい地域。自宅から会社に駆けつけると、目に飛び込んできたのは変わり果てた社屋でした。3階建ての社屋の1階部分が潰れ、5メートル南側に崩れ落ち、全壊していたのです。

万協製薬 松浦信男社長(62):
「自分に何もすることがない、できないという喪失感がいっぱい。明日からどうやってご飯を食べていったらいいのかな、全部突然なくなってしまったことのショックが一番大きかったです」

松浦さんは生後10か月だった娘を連れて避難生活を送ることになりましたが、当時は乳幼児のケアを考えてくれるような避難所はなく、子どもが泣くと「うるさいから外へ出て」と言われることもあったといいます。

困難だった避難生活。それでも会社を再建しようと、「再開ノート」を記録し始めたのですが、中身はほとんど書かれていません。震災後、すべての社員から「会社をやめたい」と伝えられたのです。さらに、会社があった場所では3階以上の建物を建てることが禁止に。

万協製薬 松浦信男社長(62):
「実質一人になってしまいました。自分が何もできないということに対する憤りですね。(自分に)こんなに力がないんだ」

元の生活には戻れない状況で再建するための土地を探し、1年10か月後、三重県にたどり着きました。

ここでは仲間と仕事を失いたくない。その思いから、いつ起こるかわからない南海トラフ巨大地震に備え、工場では被害を最小限に抑えるための工夫をしていました。

例えば、停電した状況で避難をするとき、コードが床をはっていると引っかかってけがをする危険性があるので、コードは全て天井から下ろすようにしました。そして、出入り口のシャッターは金属製ではなく、ビニール製。停電で開かなくなった際、カッターナイフで切って脱出できるようにするためです。

万協製薬 松浦信男社長(62):
「従業員がけがをしないこと、無事に社外に脱出できることを一番に考えて工場を運営しています」

さらに、建物が被害を受けても機械を他の工場に移せるよう、機械の脚にはキャスターがつけられていました。被災から3週間で製造を再開できるといいます。

万協製薬 松浦信男社長(62):
「南海トラフの危険がある場所でも必ず事業は継続できますから、安心して私どもに仕事をお出しくださいと」

2025年1月17日、午前5時46分。神戸市で行われた追悼のつどいで多くの人が祈りを捧げました。あの日から30年。震災の教訓は受け継がれています。

最終更新日:2025年1月20日 17:03
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