「見殺しにしてしまった」「たまたま助かった」…津波恐れず家に留まった2人の男性たちの後悔の13年
【「俺は逃げねえ」祖母に言われ、避難せず】
「一回立ち上がったら立っていられなくて、床にしゃがみ込む感じだった」。
テレビが倒れないよう必死になって抑えた。揺れが収まると、テレビは福島県に大津波警報が出されたと速報していた。小野さんは危機感を感じ、祖母のキクイさんに、こう呼びかけた。
「ばあちゃん!これ津波来るから逃げっぺ!」
しかし、キクイさんは「俺は逃げねえ」の一点張りだった。豊間で生まれ育ったキクイさんは、1933年に発生した昭和三陸地震の津波のことを覚えていた。「津波が来ても防潮堤を軽く越えたくらいだったから大丈夫だ」と小野さんに説明したという。小野さんの自宅前には6.2メートルの防潮堤があった。小野さんは「海も見えるので、変化があったら逃げればいい」と、キクイさんと家に留まることにした。また、キクイさんは腰が曲がっていて、歩くのも辛い状況だったことも、避難を見送った理由だ。2人は念のため、2階に上がり過ごすことにした。
【油断…2日前の津波注意報でも津波は来ず】
「これ、いつもと同じだ、大騒ぎしたって津波は来ないべ」
当時、福島県沿岸に津波が到達するのは午後3時10分と予想されたが、その時間になっても津波がくる気配は全くなかったという。
【「一気に真っ黒い海に」迫ってきた津波】
地震から約20分後の午後3時13分、第一波が観測された。ただ、砂浜が隠れるほどの波で、台風などの時に比べても、穏やかなものだった。「防潮堤を超えても床上浸水で済むくらいかな」と小野さんは感じ、危機感を持つほどではなかった。
しかし状況が一変したのは、わずか3分後の午後3時16分。自宅から窓の外の海の方を見ると…。
「海の磯がみえるくらいまで一気に潮が引きました。岩場だらけの真っ黒い海に一気に変わっていったんです」。
ふとテレビに目をやると、岩手県や宮城県に津波が襲来した様子を伝えていた。防潮堤から水が溢れ、次々と車が押し流されていた。小野さんは恐怖を感じ、再び、窓から見える海に目をやった瞬間だった。
「津波が迫ってくる(白波の)線が見えた!砂浜をずんずん迫ってくるまっすぐな線です!」。
小野さんは、この状況をちゃんと記録して残そうと持っていたデジタルカメラのレンズを向けた。2階まで波が上がってこない事を祈りながら、迫り来る津波にレンズを向け続けた。
【「逃げろ」と呼びかけても立ちすくむ住民たち】
大谷さんも海に様子を見に行き、引き波を目の当たりにした。驚いてすぐに走って引き返した。
「逃げる途中で何十人もの人に会っている、逃げろー!って必死に声をかけた」
しかし声をかけた住民の多くは、逃げずに立ちすくんでいたという。
「どこに逃げればいいのってみんな言う。みんな一瞬で頭が真っ白になって、どうしたらいいか分からなくなっていた」。
大谷さんは、高台にある神社「天狗様」へ逃げろと必死に声をかけながら自分も逃げた。
自宅には妻と知り合いの高齢の女性2人がいた。逃げるよう促したが、女性1人は足が不自由で自力で逃げる事ができなかった。一刻を争う事態、大谷さんはそのおばあさんを背負い、逃げた。
【水の上に浮かんでいた白髪】
2分後の午後3時25分。小野さんの自宅の傍の防潮堤に津波が激突する。次の瞬間、1階ほどの高さだった波は一気に2階の窓から入り込もうとするほどの高さにせり上がった。小野さんは必死に窓を閉めようとするが、暴風が吹き込み、悲鳴のような甲高い音を響かせる。
「バッシャーーーーーーーーーーン!」
2階の窓が割れ、次々と水が入ってくる。小野さんとキクイさんは一瞬にして、津波にのまれてしまった。1階からせりあがってくる水と2階から入ってきた水によって、押し流された。
「頭の中では走馬灯のように同級生との思い出などがすーっと流れていたのを覚えています」。
豊間地区を襲った津波は最大8mだった。小野さんは部屋の隅に押し流され、腰のあたりまで水に浸っていたという。「命は助かった」とほっとするのもつかの間、目の前に不可解なものが浮かんでいた。
「一瞬分からなくて、ふわふわと浮かんでいるものがあって、よく見ると白髪が浮いていた」。
祖母キクイさんの後頭部だった。自力で顔を上げられずにいたキクイさんの体を起こすと、辛うじて息をしていて無事だった。助けを求めるため、割れた窓から外を見ると、見慣れた建物はすべて残っていなかった。
【「手、離せー!」その場に残し、逃げた】
薄磯地区。おばあさんを背負った大谷さんは家を出て、高台の神社に向かって走り始めた。神社につながる石段はすぐ目の前、自宅から5,6メートルほど。しかし、バランスを崩してしまった。もう一度背負い直そうと腰を落とした瞬間だった。
「すぐ後ろの家が津波で壊されて、砂埃が勢いよく舞った…」。
津波は大谷さんたちのすぐ後ろまで迫っていた。おばあさんの手を妻ともう一人の女性が握っていた。このままではみんなが波の飲まれてしまう…。大谷さんは叫んだ。
「ばっぱ(おばあさん)の手、離せーーー!!!!」
大谷さんは石段を駆け上り、助かった。
「結果的には私の家内ともう一人の女性(77)は助かりました、私が背負ったおばあちゃんは亡くなっています。私自身が発見しています。3日後に…」
豊間地区では85人が、薄磯地区では市内でも最も多い122人が犠牲となった。防潮堤を乗り越えた津波が集落全体を飲み込み、ほとんどの家屋が破壊された。
【この映像を教訓として】
「命は助かったが、たまたま助かった、って言い方の方が正しい。そんな私が撮った動画は死ぬか生きるかの境目を記録したもののような気がして、これはちゃんと生かすことが大事なんじゃないかと思って」。
小野さんは映像を使いながら、当時経験して思ったことを伝える語り部の活動を始めた。
「少しでもおかしいと思ったら、いち早く逃げてください!逃げないという事は誰か助けに来る人がいます。タイミングが悪ければその人の命も犠牲にしてしまうかもしれません
!」。
一人一人が、助かる行動を自主的にとる事が大切と訴えている。いわき市内では最年少の語り部だ。
【「見殺しにした」…供養のために語る】
「私はおばあちゃんの目をみている、あの時のあの目の色…片時も忘れた事はない。私は…私は…見殺しにしてしまったんです…」
自分の命を守るために、犠牲にしてしまった命がある…。しばらくは、この事実から、夜も眠れずに、涙を流しながら日々を過ごしていた。
大谷さんは自力での避難が困難な人について考え続けている。国などはそうした人をスムーズに避難させるため、サポートする人の名簿を作るなどの取り組みを進めている。しかし、大谷さんは住む場所についても、災害時のことをもっと考慮すべきだと考えている。
「必ず誰かが付いて避難させるってことは、私は不可能だと思います。住まいを変えたり環境を変えたりすることも、場合によって大切だと思います」。
後悔と悲しみが入り混じる表情で大谷さんは最後にこう語った。
「私が置き去りにして亡くなってしまったおばあちゃんも何かの教訓にはなるはずですよね、でもこれは全部後付けなんですよね、後付け…」
震災の経験についてしばらくは誰にも話せなかったという大谷さん。おばあさんへの供養の気持ちを込めて、今は語り継ぐ活動に身を尽くしている。