あの日から79年 太平洋戦争末期に沖縄で散った父 その壮絶な姿を知った海陽町の女性は【徳島】
太平洋戦争末期、国内最大の激戦地となったのが、沖縄です。
そこでは激しい地上戦が繰り返されました。
その沖縄戦で散った父、最近になってようやく知った最後の姿は壮絶なものでした。
あの日から79年。
徳島市雑賀町、徳島縣護國神社の境内にある戦没者記念館。
戦争の記憶を後世に伝えようと、10年前、県内の戦没者遺族らが整備しました。
ここには、ある男性が戦地から妻に送ったハガキが残されています。
海陽町の濵順子さんは、国内最大の激戦地となった沖縄で、父を亡くしました。
このハガキは、父・辰雄さんの面影をしのばせるわずかな手掛かりです。
1945年太平洋戦争末期、沖縄では民間人を含む約20万人の尊い命が奪われました。
壮絶な地上戦が続く中、特攻艇の技術要員だった辰雄さんは、ある日突然、歩兵となることを言い渡されます。
「陣前ノ敵ヲ破砕セヨ」
歩兵となったわずか10日後、辰雄さんは亡くなりました、31歳の若さでした。
沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨は、その多くが未だ遺族のもとに戻っていません。
濱さんは最近になってようやく、様々な資料や目撃証言などから辰雄さんの最後の様子を知ることができたといいます、しかし…。
(濵順子さん)
「もうこんな話聞かなきゃよかったと思ってね。すごく涙が出てきて思ったんですけど、すごく壮絶な亡くなり方をしているのに、そんなことを後々の人に伝えて話していかなければならないんじゃないかなと思いました」
全国の戦没者約250万人、県内の戦没者約2万8000人、うち沖縄戦に倒れた941人。
戦没者記念館の壁面を埋める8183枚。
人間にとって最も愚かな行為である戦争、その最も愚かな行為がいまだ世界で続けられています。
8月15日、私たちが今一度、平和への思いをはせる日です。
(詳しくは動画で)
そこでは激しい地上戦が繰り返されました。
その沖縄戦で散った父、最近になってようやく知った最後の姿は壮絶なものでした。
あの日から79年。
徳島市雑賀町、徳島縣護國神社の境内にある戦没者記念館。
戦争の記憶を後世に伝えようと、10年前、県内の戦没者遺族らが整備しました。
ここには、ある男性が戦地から妻に送ったハガキが残されています。
海陽町の濵順子さんは、国内最大の激戦地となった沖縄で、父を亡くしました。
このハガキは、父・辰雄さんの面影をしのばせるわずかな手掛かりです。
1945年太平洋戦争末期、沖縄では民間人を含む約20万人の尊い命が奪われました。
壮絶な地上戦が続く中、特攻艇の技術要員だった辰雄さんは、ある日突然、歩兵となることを言い渡されます。
「陣前ノ敵ヲ破砕セヨ」
歩兵となったわずか10日後、辰雄さんは亡くなりました、31歳の若さでした。
沖縄戦で亡くなった人たちの遺骨は、その多くが未だ遺族のもとに戻っていません。
濱さんは最近になってようやく、様々な資料や目撃証言などから辰雄さんの最後の様子を知ることができたといいます、しかし…。
(濵順子さん)
「もうこんな話聞かなきゃよかったと思ってね。すごく涙が出てきて思ったんですけど、すごく壮絶な亡くなり方をしているのに、そんなことを後々の人に伝えて話していかなければならないんじゃないかなと思いました」
全国の戦没者約250万人、県内の戦没者約2万8000人、うち沖縄戦に倒れた941人。
戦没者記念館の壁面を埋める8183枚。
人間にとって最も愚かな行為である戦争、その最も愚かな行為がいまだ世界で続けられています。
8月15日、私たちが今一度、平和への思いをはせる日です。
(詳しくは動画で)