”集団避難”を選択した受験生家族の2か月 志望校は被災した”地元”の高校
今月12日。
珠洲市立緑丘中学校の40人が門出の日を迎えました。
卒業生の柚谷日和さん
卒業までの2か月あまりは、非日常の連続でした。
元日の能登半島地震で珠洲市では103人が亡くなり、住宅およそ5000棟が全半壊。
ほぼ全域で断水も発生し、中学校は避難所に。
馳知事:
「3学期中は移っていただいて避難してそこで生活を安定させ、学習環境を整えることをお願いしたい」
希望者を対象に中学生の集団避難が決まったのです。
1月21日。
100キロ以上離れた金沢市に集団避難する中学生たちが集まっていました。
「ちょっと緊張しますね」
その場に、柚谷日和さんもいました。
柚谷さんの自宅は地震で被災し、親戚の家に家族5人で避難しています。
受験を控える中、いとこの和嶋杏樹さんとともに、集団避難を選びました。
柚谷日和さん:
「勉強とかいろいろ頑張ってきます」
母・恭子さん:
「ほんとに、元気に頑張ってもらえれば、それが1番かなと思いますね。道中も心配ですけどね」
避難先の金沢市へ出発。
およそ2か月間の家族との別れです。
それからおよそ1か月。
母・恭子さん:
「やっぱりね、日和の分の洗濯物がないと意外とね、軽いですね」
母親の恭子さんは、2月から珠洲市内で就労支援の仕事に復帰。
父親の一馬さんは、同じく市内で、上下水道関連などの仕事を続けています。
そして、勉強のため集団避難した日和さんは。
母・恭子さん:
「最初はちょっとこういったスタンプばっかり泣いてるスタンプばっかり送られてきましたね」
地震がなければ、離れることがなかった親子。
当初は、何度も「帰りたい」と口にしていましたが徐々に環境にも慣れたそうです。
母・恭子さん:
「なんか友達とメイクをしてもらったり、そんな感じで楽しくやってる様子を送ってきてくれますね」
安堵する一方で…。
母・恭子さん:
「でもあの子がいないとやっぱり寂しいなと思いますね。なんか家族の中心的な子だったのかなとかって思いますよね」
高校入試まで1週間あまりとなった2月24日。
受験を前に元気づけようと連休に合わせて家族が日和さんに会いに来ました。
柚谷日和さん:
「(集団避難は)家族じゃない人たちのが多い中で生活してるので、めっちゃ気がはったりもしますね」
「(家族に)あってみたら楽しいし落ち着くよなとおもって」
そんな日和さん、高校の志望校には、地元の飯田高校を選びました。
しかし。
元日の地震で日和さんの自宅も大きく損傷し、被害の判定は大規模半壊。
さらに、家の近くでは液状化のような現象も。
母・恭子さん:
「本当はずっと住み続けたいんですけど、ちょっとさすがに直すのも無理かなって」
慣れ親しんだ自宅は取り壊し、仮設住宅への入居を申し込んでいますがいつ入居できるのか見通しは立っていません。
同級生には地震を機に地元を離れる子もいるといいますが。
柚谷日和さん:
「金沢の高校でも私の学力で入れそうなところもあったんですけど」
「なんかその、もし、その高校に通うとして」
「生活とかはどうするのかなとか、そういうのも考えた上でちょっと厳しいなって感じになって」
両親が珠洲で仕事をしていることもあり、地元に残ることを決めました、
今月10日。高校入試を終え、日和さんたちがおよそ2か月ぶりに珠洲に戻ってきました。
いとこの和嶋杏樹さんとともに家族で避難している親戚の家に戻った日和さん。
久しぶりに、家族や親せきに囲まれたにぎやかな食卓を囲みました。
母・恭子さん:
「この子たちにしてみれば不便な生活に逆戻りになってしまうんですけど」
「家族みんなで力を合わせて暮らしていけるんじゃないかなって思います」
柚谷日和さん:
「辛い状況でもなんか耐え抜くすべを見つけたっていうか」
「人間的にも成長できたのかなってちょっと考えていて、行って良かったなと思います」
そして迎えた卒業の日。
緑丘中学では、卒業生40人が旅立ちの日を迎えました。
3学期は、全員で学校生活を送ることはできませんでした。
それでも、そろって卒業することができました。
父・一馬さん:
「今日のような感じでも胸を張ってこれからも。堂々とたくましく、強く生きてほしいですね」
母・恭子さん:
「地震があってから、ほんとに当たり前じゃない生活の中で、本当に無事にここまで。頑張って生活してきて、受験も乗り越えて、本当に頑張ってこの日を迎えてくれて、本当にあの子たちにありがとうって思いました」
柚谷日和さん:
「悲しんでても多分、あんまり意味ないっていうか」
「今の現状を受け止めて、ちゃんと自分なりに考えて」
「なにか先のために自分にできることをするしかないなと思って」
志望校である地元の飯田高校にも無事、合格した日和さん。
地震で大きな被害を受けた地元でこれからも歩んでいきます。