【気仙沼】3月11日、被災地で祈る人々の思い「俺は生きてるよ、生き抜くことに決めたよ」

東日本大震災では、市の内陸部まで達する巨大津波と地震発生後の大規模な火災が発生。
県によると死者は1,219人(震災関連死を含む)、行方不明者は214人となり、人的被害としては県内で石巻市に次ぐ2番目に大きな被害。また、住家は全壊が8,483棟、半壊が2,571棟の被害があった。
去年移住してきた男性は、「3月11日は移住のきっかけとなった日。哀悼の意と感謝を伝えたくてきた。市内の方が生き生きと暮らせるような、その助けになれたら」と語った。
市内の男性は、「私はその時県外の実家にいた。そこで気仙沼湾が燃えているのを知ったんだ」と涙ぐんだ。
数年前に関東から移住してきた男性は「亡くなった方は、何があったか分からない状況で急に亡くなった方もいると思う。気仙沼は人の温かみを感じる町。これからも人のつながりを大切にした町であってほしい」と話した。
小泉海岸には、大切な人を思いながら海を見つめる人の姿があった。
震災当時、消防士だった男性は、海岸で妻の遺影に向かって「俺は生きてるよ、生き抜くことに決めたよ。お前を助けることができず申し訳ない」と思いながら祈ったという。
そして、「あなたを忘れない。この言葉一つで14年間生き抜いてきた。きょうもそうです。」と語った。
午後2時46分からは気仙沼市復興祈念公園で黙とうが行われた。
震災から10年目の2021年3月11日に開園したこの復興祈念公園。
津波火災等で壊滅的な被害を受けた鹿折地区・内湾地区を眼下に望み、「犠牲者銘板」は亡くなった人がかつて住んでいた方角に向かって並べられている。
黙とう参加していた人に話を聞いた。
男性は「犠牲者銘板」に刻まれた妻の名前を見つめながら「こんなことがもうないように願っている。女房の代わりに頑張っていく」と誓った。
埼玉から訪れていた男性は、「3.11は欠かさず来ている。被害に合った方みんなを思い」祈った。
自宅と店を流された女性は「亡くなった人の元気な時を思い出していた。言葉には表せないが、何年経っても忘れられない日。14年経って地元は立派にはなったが、人口は減った。寂しい」と話した。