【特集】平原綾香さんが歌う「ジュピター」 ラジオの音楽で被災者を勇気づけたコミュニティFMはいま 中越地震20年 《新潟》
またラジオから流れる音楽が被災者の心を支え、復興のシンボルとなりました。
中越地震から20年経ち、当時の経験は令和のいま、生かされています。
平原綾香さんが歌う「Jupiter(ジュピター)」。
その歌声はいまも長岡の人たちに愛されています。
長岡花火で打ち上げられる復興祈願花火「フェニックス」のテーマ曲として使用され、毎年、多くの感動を呼んでいます。
◆被災者を勇気づけた歌声
2004年10月23日に発生した中越地震。 中越地方を襲った最大震度7の揺れ…… 。
その後も余震が相次ぎ、避難者は一時10万人を超えました。
避難所に身を寄せ不安な日々を送る被災者……その心を癒し、勇気づけたのがラジオから流れてくる平原さんの歌声でした。
〈平原綾香さん〉
「私の歌を聞いてくださっている人がいるんだとそして傷ついて大変な人たちが聞いてくださっていると知りまして私自身とても励まされた記憶があります」
長岡市にある「FMながおか」。
長岡市を中心に小千谷市や見附市などでも放送されるコミュニティFMです。
「FMながおか」では地震の発生から5分ほどで緊急の災害放送を開始。
24時間体制で情報を伝え続けました。
◆「臨時災害放送局」として放送
避難所や給水所の情報など被災者に寄り添った放送を続けたFMながおか。
地震発生から3日後には「臨時災害放送局」として放送を始めました。
これは災害時に市町村などが開設するもので、コミュニティFMを活用した事例は全国で初めてでした。
〈FMながおか 脇屋雄介 社長〉
「我々コミュニティ放送は被災者のための放送ということで内側に対して。外に出す必要はない」
この経験は「長岡モデル」として東日本大震災でも生かされました。
震災の発生から10日後、宮城県山元町では町役場に臨時災害放送局を設置。
役場から相談を受けた脇屋さんが機材やアンテナの設置に協力しました。
地震にとどまらず大雨や大雪など自然災害が相次ぐいま、ラジオの役割は増しています 。
それが緊急告知FMラジオです。
当時、FMながおかの放送局長を務めていた脇屋雄介社長です。
〈FMながおか 脇屋雄介 社長〉
「市役所の壁に貼ってあるメモ用紙を読んでいいと。被害状況をメモを読みながら生放送を全部やりました」
震災の直後から放送を続けるなか時間が経つにつれ、リスナーである被災者の気持ちに変化を感じていました。
〈FMながおか 脇屋雄介 社長〉
「災害だからということで元気な音楽はやめようと、例えばクラシックだとかそういうのを流し続けたんですよ。そうしたら日数が経ってくるうちにもっと元気になる音楽をお願いしたいということでリクエストの中身も変わってきました」
その時、多くのリクエストが寄せられたのが平原綾香さんの「ジュピター」でした。
〈FMながおか 脇屋雄介 社長〉
「ジュピターですね。災害のとき(リクエストが)ものすごかったです」
〈平原綾香さん〉
「デビューしたばかりだったのでどんな人が聞いてくださっているのかとかデビューしても実感がなかったんですけど、新潟の皆さんが聞いてくださっているのを聞いたときに初めてやっと実感がもてたというか」
◆復興半ばの被災地を勇気づけた楽曲に“ふるさと”
長岡花火でフェニックスが打ち上げられたのは震災の翌年、2005年。
平原さんも訪れジュピターを熱唱し復興半ばの被災地を勇気づけました。
〈平原綾香さん〉
自分が歌う意味を教えてくださったのが震災で傷ついたみなさんだったんですね。ジュピターという楽曲にふるさとができた気がして」
ラジオ局からの信号で受信機のスイッチが自動的に入り防災情報を伝えるもので、2006年、全国で初めて長岡市で導入されました。
いまでは全世帯に設置する自治体もあるなど全国に広がっています。
〈FMながおか 脇屋雄介 社長〉
「全国の放送局とはまた別な市町村単位がこのコミュニティFM放送なので市町村単位だからこそ、その内側に対しての放送ができる。広域と違った強みが災害時に放送で力になったんじゃないか」
復興祈願花火フェニックスのテーマ曲、「ジュピター」。
平原さんにとっても特別な曲だといいます。
〈平原綾香さん〉
「フェニックス花火も20年ということで、私も共に歩んでいる感覚がありますし、いまだに続いているからこそ私も続けて歌をこれからも歌っていきたいと思っていますし」
ジュピターを通じてつながった平原さんと長岡……中越地震から10年となる2014年には再び花火会場を訪れ歌声を披露してくれました。
そして震災から20年の節目となった10月23日にも長岡市を訪れました。
〈平原綾香さん〉
「切っても切れないご縁なので自分は東京出身ですけど新潟がふるさとだと思っているので引き続き共に歩んでいけたらいいなと思っています」
あの日、ラジオから流れてきたジュピター。
その歌詞に……その歌声に多くの人が勇気づけられ、復興のシンボルとなりました。