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【特集】「家がマッチ箱をつぶしたようになっている」68人が犠牲になった中越地震から20年 証言でたどる 命を救おうとした人々 ≪新潟≫

2024年10月12日 18:10
【特集】「家がマッチ箱をつぶしたようになっている」68人が犠牲になった中越地震から20年 証言でたどる 命を救おうとした人々 ≪新潟≫

68人が犠牲になった中越地震……20年前のあの日、余震が相次ぐ混乱の最中、1人でも多くの住民を救おうと奮闘する人たちの姿がありました。

自衛隊を先導しながら被災地を一晩中歩いた市の職員……ケガ人の手当てにあたった医療従事者。

証言をもとにあの日の記憶をたどります。

最大震度7

2004年10月23日、午後5時56分……。
最大震度7の激しい揺れが中越地方を襲いました。

中でも甚大な被害を受けたのは震源地周辺の中山間地域です。
19人が犠牲となった小千谷市。

子どもと入浴している時に被災

市役所に勤める勝野和晃さんは自宅で子どもと入浴している時に被災しました。
家族の安全を確保したあと、急いで市役所へ、すると……。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「塩谷という集落で家がつぶれていて助けに来ていただきたいというので、市の方に要請があったので、その時間には自衛隊が小千谷に向かっていて、待機している状態だったので、自衛隊を塩谷に派遣して救助しようということが内部で決まった。そこまで自衛隊の部隊を案内する職員がいないかと」

市職員3人が……

当時の記録をまとめた資料によると……。

塩谷地区の家屋が倒壊し7名が下敷き、現地を熟知している市職員3名を先導者に選抜……。

そのうちのひとりが当時、駅伝クラブに所属していた勝野さんでした。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「たまたま駅伝部のメンバーがそろっていたので」

Q)勝野さんが手を挙げたのですか?
「3人同時でみんな、ここにいても何もすることができないですし、少しでも役に立てればなと」

駅伝クラブの3人は旧川口町の天納地区で自衛隊50人と合流……。

その日の夜、塩谷集落に向かって歩き始めるのです。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「気持ちは早く行きたかったんですけど、余震も続いているし、足元も暗くてどこに割れ目があるか分からないような道路を歩いているので、ゆっくりと歩いて行きました。怖かったですね、特にトンネルの中で余震があってみんなここで死ぬのかなと」

マッチ箱を潰したような家

一晩中歩き続け明け方、塩谷集落に到着しました。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「とにかく早く助けてくれと、当時もう家がマッチ箱をつぶしたようになっているので」

しかし……。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「我々が行った時にはもう手の施しようがなかった。安全な車庫の中に……ふとんをかけられてご遺体だったのでしょうけど見たときはショックでしたね」

家屋の下敷きになっていた3人の小学生はすでに息を引き取っていました。
集落の住民たちは自衛隊のヘリコプターで避難したといいます。

駅伝クラブの3人は逃げ遅れがいないか1軒1軒確認したあと、歩いて市役所に向かいました。
道中では、こんな出来事が……。


〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「荷頃集落に行った時におばあちゃんが上でまだ取り残されているので助けに行ってくれないかと寝たきりのおばあちゃんだった。3人でおばあちゃん担ぐ人、布団を介護用の道具を持つ人で安全なところまで避難させた。とにかく自分たちが行かなきゃだめだという使命感にかられて行ったので」

“命のとりで”奮闘したあの日

命の最後のとりで……病院でも奮闘する人たちの姿がありました。

〈県立十日町病院 看護師 大渕美保さん〉
「すごいひび割れでした、もう崩れるんじゃないかなと。外傷で骨折の方も4人ほど受けた」

震源から直線距離で20キロ。
十日町市にある県立十日町病院です。

TeNYはその日の夜、病棟の様子を撮影していました。
次々と運ばれてくるケガ人……。

病室の外にも布団が敷かれました。
誰もが不安げな表情を浮かべていました。

「怖がる患者を避難させた」

〈県立十日町病院 放射線技師 小島靖之さん〉
「病棟が古いから一番安全な外来棟に移しましょうと」

〈県立十日町病院 看護師 大渕美保さん〉
「当時休日だったし男性職員もそんなに院内にいなかった。下まで下ろしたら病棟まで 上がってきてまた下ろす」

〈県立十日町病院 看護師 高橋八恵子さん〉
「大変だった。布団に乗っかってもらって、怖がる患者さんを避難させた」

土曜日の夕食時を襲った激しい揺れ……。
十日町市では午後6時前に震度6弱を観測し、その後も立て続けに余震が発生……。
午後6時半過ぎには再び震度6強の揺れに見舞われました。

〈県立十日町病院 看護師 高橋八恵子さん〉
「連絡とれてなかったよね。大丈夫かなと思いながら一晩過ごした」

家族と連絡が取れない状況で患者の対応にあたっていたといいます。

病院からいなくなる患者も

約50人が入院していたといいますが、病院からいなくなる患者も……。

〈県立十日町病院 看護師 大渕美保さん〉
「リストがあって患者さんちゃんといるか安否確認するが一人いなくてすごく心配した。その方は割と元気な方で、おそらく家に帰ったんじゃないかと、夜中安否確認ができた」

十日町市では9人が亡くなったほか多くの重傷者が出ました。
病院では震災を契機に職員の防災への意識を高め、災害拠点病院として機能を拡充させました。

さらに、専門的な訓練を受けた医療チームDMATが発足……。
災害に強い病院として住民の命を預かっています。

〈県立十日町病院 放射線技師 小島靖之さん〉
「災害があった場合は経験も踏まえて迅速に対応できる」

〈県立十日町病院 看護師 村山織衣さん〉
「患者さんに安心と安全を届けられる病院でありたい」

大丈夫な田んぼが無かった

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「めちゃくちゃだったんですよ。田んぼが、田んぼも道路も水路も」

小千谷市の勝野さんです。 案内してくれたのは、若栃集落。
山あいには天水田が広がります。
寒暖差が激しく、水質が優れていることからおいしいコメができるといいます。

しかし、自慢の田んぼは20年前の地震で甚大な被害を受けました。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「もう大丈夫な田んぼがほぼなかったので、本当に来年度以降田植えができるのかとすごく心配だった。みなさん作付けするのかなとここまで田んぼが崩れて農道が崩れたりして……」

コメ作りを続ける人

ここでコメ作りを続ける細金剛さんです。
当時、農林課に所属していた勝野さんとコメ農家の細金さん。

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「20年ですよ、うちの子もハタチだもんな、ことし」

〈コメ農家 細金剛さん〉
「震災から20年だからほんと普通だったら成人ですよ。だから感慨深い」

地震のあと、集落では田んぼを手放す農家も少なくなかったといいます。

記憶と教訓を未来へ

車をさらに山の奥へ走らせると……。 つくっていたのは、大規模なため池。

雪が少ない年でも田んぼへ水を供給できるようになり、さらなる収量の拡大に期待できるといいます。

Q)もっとおコメがおいしくなるということですか?
〈コメ農家 細金剛さん〉
「腕が違うから」

〈コメ農家 細金剛さん〉
「この辺は土壌が違うし、湧き水、それと寒暖の差、これでものすごくうまくなる」

さらに、新しい田んぼをつくるため整備も行われています。

黄金色に輝く稲穂を再び若栃に……。

2人は互いに励まし合いながら復旧に向けて力を合わせてきました。

〈コメ農家 細金剛さん〉
「山地を持続可能性があるようにするには圃場整備しかない、圃場整備をすると今度は誰でも農家を継げる、次世代に任せられる」

〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「こんな山の中で圃場整備するなんていうのが当時もう夢にも思わなかったので。ゼロに戻しただけなのでそこからは地域の方の努力ですよね」

あの日、誰もが不安なときを過ごす中で住民に寄り添い、命を守るため奮闘した人たち。

中越地震から20年……その記憶と教訓を未来へつなげていきます。

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