【戦後80年】②「美談ではない」…平和ガイドと女子学徒隊
1年を通してお伝えする信州の戦後80年。国内で唯一地上戦があった沖縄と信州の繋がりを伝える2回目です。
沖縄各地の戦争遺跡を平和ガイドとして案内するのは佐久市から移住した女性。彼女は何を伝えたいと考えているのでしょうか。
※喜屋武岬の海 沖縄本島の最南端にある糸満市。
糸洲の壕と呼ばれる自然洞窟は、戦時中、仮設の「野戦病院」として使われていました。長さは数キロあり、ほかの壕や海にもつながっているとみられます。
ここでいわゆる「院長」の役割を果たしていたのが佐久市出身の小池勇助軍医です。
その縁でおととしまで手入れがされず荒れたままだった壕を、見学ができるようにと、佐久市が入り口付近を整備し、「今年1月」にお披露目されました。
阿部知事
「井出さんがここでガイドをやっ ているのも何かのご縁ですね」
平和ガイドの井出佳代子さん
「だと思います自分も本当に偶然糸満に住んで本当にすぐ近くなんですけどなんか導かれたなと自分では勝手に感じているんで すけど」
お披露目の日、阿部知事が話しかけた女性がいました。平和ガイドの井出佳代子さんです。井出さんは13年前佐久市から糸満に移住。
糸洲の壕のすぐ近くで暮らします。
井出さんは沖縄戦で多くの人が犠牲になった南風原町で平和ガイドの養成講座に参加、沖縄戦を学んできました。
今では50人の会員をまとめる平和ガイドの会の会長でもあります。
井出佳代子さん
「その戦争の傷跡がずっと 今も続いているんだけれどもそれを知らないで自分は県外で平和といいながらずっと過ごしてきたんだなということが自分自身にとっては一番衝撃というか、知らなかったんだな あ…と。本当にそういう思いでした」
小池軍医のもと壕内にいたのは170人。
救護や治療にあたる衛生兵の他、看護婦として活動する女学生がいました。
沖縄の積徳高等女学校の4年生。従軍する前の生徒は56人。
しかし小池軍医は全員に調書を書かせ家族などに事情がある生徒に帰宅を命じ事実上の除隊を許します。
56人中31人が帰宅し、残りの25人が従軍ししました。
女学生たちが最初に配属されたのは糸満市の北隣りにある豊見城市の野戦病院。
沖縄にアメリカ軍が上陸した1945年3月のことです。
ドキュメンタリー映画から引用「『ふじ学徒隊』学徒の証言」猛烈な湿気と暑さ。壕の中で小池軍医と女学生たちは救護にあたったのです。
壕から見える那覇港ではアメリカ軍の艦砲射撃が続き時には日本の特攻機がアメリカ軍に撃たれて海に落ちていく光景も見たと言います。
そして終戦3か月前アメリカ軍の攻撃により、那覇市の首里城地下にあった日本軍の司令部は南部へと追い込まれます。小池軍医率いる野戦病院も南の糸満市=糸洲の壕へと移動を決めました。
記者
「豊見城から糸洲の壕って10キロ近くあるじゃないですか。それを夜中に歩いたの?」
名城さん
「歩きました」
女学生の一人元学徒隊の名城文子さん。6年前、私たちは生前の声を記録していました。
名城文子さん
「歩くときにね今でも忘れないの はですね助けてくださーい助けてくださーい…」と寝たきりで動けないで歩けない。こっちはもう聞いても何もしてあげられない…だから大変辛かったですね、この思いは」
平和ガイド・井出佳代子さん
「そのときに自分の力で動けない重傷患者を青酸カリで命をうばってくるということがありました。それを処置というふうに呼んだので処置命令というふうに言ったんですけれども。結局、足手まといになってしまう、そしてもし捕まった時に日本軍の秘密をばらしては困るということがありますのでそういう時になるとやはり一人一人の兵士の命より軍という組織だったり、軍の秘密だったりそういったものの方が優先順位が上になるんですよね」
「だから戦争がいかに命を軽んじるものか」
傷ついた日本兵を連れてたどり着いた糸洲の壕。しかし壕には既に地元住民が避難していたといいます。
平和ガイド・井出佳代子さん
「結局日本軍が南部に撤退することによって南部にあった壕=ガマと呼ばれる自然洞窟では日本軍が使うから住民は出て行 けっていう‟壕追い出し”があちこちで起こるんですね。おそらく糸洲の壕でもそういうことがあったという証言があるのでそういったことも全部踏まえながら…」
軍と住民との間で板挟みになりながら、兵士の看護にあたった女学生たち。
終戦が近付いた1945年6月当時、沖縄本島南部では5つの野戦病院に5つの女子学徒隊が従軍していた記録が残されています。
そのうち3つの女子学徒隊は6月18日と19日に軍から解散命令が出されました。
映画化されたあの「ひめゆり学徒隊」もそのひとつ。
解散命令によって少女たちが壕を離れたその日……。沖縄のアメリカ軍の司令官が、日本軍の攻撃で殺されたことで、米軍は無差別の報復攻撃に出たといいます。
ひめゆりの学徒222人のうち123人が、この報復攻撃の犠牲となりました。
井出さん
「最悪のタイミングで外に出されてしまった。一番報復攻撃が激しくなるときに出されてしまったので犠牲者が多くなるというのは必然だったと思うんです」
一方、糸洲の壕を指揮していた小池軍医が女学生たちに解散命令を出したのは1週間遅れの6月26日。
「それを小池さんは事態が鎮静化するまで待って26日に(解散命令を)出したっていうのはやっぱりそれは判断としては懸命だったとは思うんですね」
その3日前、23日には現地の日本軍指令官 牛島満中将が自決し沖縄の組織的な戦闘は終わったとされています。
小池軍医率いるふじ学徒隊は戦中戦後に合わせて3人が犠牲となりました。
元ふじ学徒隊名城文子さん
「今までごくろうさんでした。」って。だからあの隊長のお陰で、隊長があんなこと教えてくれな ければ私たちはまた大変だったんですよ。だから隊長の言いわけが良かったからね「ごめんなさい」って。「申し訳なかったなあ、こんな長い間頑張ってもらって」とか。優しかったですよ。とても」
今、100歳近くになる当時の女学生たち。
糸洲の壕の竣工式に姿を見せた人は一人もいませんでした。
記者
「これからの沖縄はどうなって欲しいですか?」
名城さん
「とにかくまず宜野湾は早く返してね。宜野湾は早くやるかと思ったら全然前に進まないで、いつまでこんななのかなぁ?若い人たちがかわいそうだなあと思う。私たちがあんなに苦労してきたのに、その苦労が全然実を結ばなくて、いつまでもこんな、もう少し日本として頑張って早く一日も早くやってくれたらなあと思う。情けないな」」